アスファルトからロンドンパンクが聞こえた夜
宇宙は愛で満たされているのかもしれないし、そのことは意識のどこかで理解していることは知っているのだけれど、それをわざわざ「宇宙は愛でできている」みたいなことを口に出して言う人のことを、私は信用したくない。
幸せは好きなのに心の何処かでは「幸せになんてなりたくない」と思っているような気がする。
だから私はあからさまに「幸せ」を強調して見せびらかすような行為をする人のことが鼻についてしまう。
もうそれは側からみれば宗教のようで(私は密かにハッピー教と呼んでいる。)、そんなのただ寄り集まって傷を舐めあっているだけじゃないか、ケッ。とか思いながら冷めた目を向けてしまう。かと思えば、そんなに何かに狂うほど陶酔できることを羨ましくも思う。
もう何年前になるだろうか、子供の頃から父親のように慕っていた母方の叔父が亡くなった。
その時私はふと思った。
「自分が死んでも世界はいつもと変わらずに動き続けるんだ……。」と。
葬式などという非日常のイベントはあれど、それが終わればそれぞれがまた日常に戻っていく。朝起きて、ご飯をたべて、仕事に行って、というような日常に。
当たり前のことなのだけど、少し不思議に感じた。
先日、職場の近くで車どうしの事故があったらしい。そして死亡事故だったらしい。らしい、といいながら私はその時現場を通ったのだけど。
まったくどこのだれか知らないし、おじさんかおばさんか若い人かなにかも分からないけど、それを聞いたとき私の中では「へぇ、、」で済まされないものがあった。
その人、朝普通に家から出て、家族がいれば家族もそれが当たり前で、でもその何時間か後に死んじゃったんだ。とか、
事故が起きる数秒前まで何とも思ってなかったんだろうなぁ。とか、
前の日の夜に喋った誰かも、明日その人が死ぬとか思わなかったんだろうなぁ。とか、
来週楽しみな予定が入ってたりしたのかなぁ。とか。
私はなぜか、普段から時間を逆回転してしまうクセがある。昔「スライディング・ドア」という映画があったけど、あんな感じで、脳内で時間を巻き戻して別のパラレルワールド的な時間軸を想像してしまう。
以前付き合っていた恋人に、当時、何か物事の優先順位について話していたときに「明日死ぬかもしれんから、私はその時最善の選択をするようにしている。」(ここでいう最善の基準は、自分の心に従うという意味。)と話したところ、彼は「そんなこといっても、俺は恐らく明日も明後日も生きてるはずやからなぁ」みたいなことを言っていた。
そこで私は、この人とは生きるペースやベクトルが違うんだなと悟った。
別に生きることに切羽詰まってるわけじゃぁないんですが。まぁ、ただ、もし仮に、夜寝て朝目覚めれなくて死んじゃって、数日気付かれなくて身体が腐りはじめて、そしたら猫たちに申し訳ないなぁとか、猫たちの世話は誰かしてくれるだろうかとか、とりあえずその辺はふんわり考えたりもしますがね。
まぁ、ダラダラ纏まりのない事を書きましたが、結局のところ最終的に「どうにでもなればいい」っていう選択肢ってけっこう大事なんだなぁと、最近改めて思ったわけです。