思いやりや優しさは受け手がそれと認識しないと意味がないということについて考えてみた話
漫画家のみうらじゅんが「いやげもの」という、もらっても嬉しくないお土産を買っちゃうという話を彼の本か何かで読んだとき、『私みたいな人っているんだな』と思ったことがある。
実は私も〝もらっても嬉しくないお土産〟を買ってしまいがちだったのである。
「だった」と過去形にしたのは、現在はその行為をやめているからだ。
やめているだけであって、実際そういう「もらっても嬉しくないもの」で私のツボに入ったものを目の前にすると、買ってしまいそうな衝動に陥ってしまう。
もう何年も前のこと。
友人と長崎に遊びに行ったとき、まだ長崎に入るずっと前の行きのパーキングエリアで〝にわかせんぺい〟のコーナーで立ち止まった。
福岡人なら知らない人などいないであろう赤い困った奴は、本来「せんぺい」という名前の通りお菓子なのだけど、今やお土産コーナーなら大抵どこにでもその〝赤い困った奴〟のグッズが販売されている。
文房具、キーホルダー、ハンカチ、タオル、靴下など、ど定番のグッズの中に私の興味をそそるものがあった。
アイマスクだ。
私は当時付き合っていた恋人に、これをお土産にすることに決めた。
決めた理由は以下になる。
①にわかせんぺいの存在をそのまま表現している面白さ
②わりと実用的だし目が疲れると言っていたから良いと思った
③「長崎に行ったのに博多のお土産かよ」とツッこんで欲しかった
④そして③に対して「ごめぇ〜ん」と返したかった
いい。とてもいいじゃないか。
、、、と思ったのはもちろん私だけで。
実際の本人のコメントは「いやぁ、これ、、、どうしたらいいん、、」
という困りはてた反応だった。
私が〝いやげもの〟をあげる行為は、「それを受け取った先のこと」よりも「それを手にした瞬間の反応」が見たいだけで、それは個人的にはコミュニケーションの一環だと思っていたのだけど、でもそれは通じない人からするとやっぱり私の勝手なオナニー行為だったんだろうなと後日反省した。
別の意味で「ごめぇ〜ん」である。
そして今日、たまたま見かけた「食堂の券売機のボタンガチャガチャ」に手をかけそうになった。
ボタンを押したい衝動をグッとこらえ、その場を立ち去った。