私の中のワタシを忘れるために

錠剤は一粒ずつしか飲み込めない人が書くブログ。

「仲間意識」が苦手なんです

「仲間」ということばに嫌悪感を抱いてしまう。

「仲間」が好きな人たちは、やたらと「俺たちは仲間だ!」って強調する。

あれがどうも苦手なのである。

 

たまに、「わたし、こんなところ(性格)があるんです」みたいな話になったときなども、「あ、仲間だぁ〜〜♪私だけじゃない」みたいなことを言われたりするけど、口には出さないけど「一緒にしないでくれ」と思ったりするときもある。

 

「アットホーム」とかも、ちょっと苦手である。家のようなくつろぎを求めるなら、家にいればいい。同じ〝くつろぎ〟でもどこか一線ひいたセミドライな感覚が、日頃味わえない〝くつろぎ〟を引き出すのではないだろうか。

 

 

これは私が勝手に感じていることだが、「仲間意識」が強い人たちというのは、なかなか本音で生きていない人が多いような気がする。

「仲間」が先にあるために、「仲間」を崩さないために、相手の課題まで背負い込む傾向が見られる。

 

漫画「ワンピース」の熱血さより、「HUNTER×HUNTER」のドライさが理想である。

「仲間」を意識すると、どうしても〝枠〟ができてしまう。仲間かそうでないかの、枠が。すると、あらゆる可能性が収縮されてしまう。「仲間」の枠に入るにはある程度の条件が必要だろう。すると、そのラインで振り分けられるので、自由度というのは狭まってくる。

ところが、「仲間」ではなく、その時その時の「チームワーク」で考えれば、その時その時に必要な持ち寄った個々の能力で、最大の力を発揮出来る。

「仲間」だと、ある時はAの能力は必要だが、ある時には弱く必要ない場合があったりするだろう。すると「自分だけ仲間はずれだ……どうせ俺は役立たずだ……。」なんて言い出されたら非常にめんどくさいのである。

 

誰でも尊敬できる部分はある。それがたとえ敵でも。

仲間意識が強くなると、自分への信頼が弱くなる。

そして誰かへの崇拝も、自分への信頼を弱くする。

 

「ワンピース」でルフィは、「俺は一人じゃ何もできないからみんなに助けてもらわないと困る!」みたいなことを言ったり、〝仲間〟をその人そのものじゃなく、〝強いから〟とか〝職業〟といった部分で選んでいる。

 

仲間意識が薄い私の人付き合いスタンスはというと、カフェとかオシャレなとこに行くならこの人。ちょっと高級なご飯ならこの人。都会の夜ならこの人。馬鹿騒ぎしたいならこの人。野山の大自然ならこの人。音楽ならこの人。新しい情報収集したいならこの人。みたいな感じで、その時関わってる目の前にいる人も自分も同じくらい楽しめるであろう人を、楽しみたい気分に合わせてつまんでいるような感じ。

そして、リアルもSNSのみの関わりも変わりはない。(変えているならこんなブログ書いてない。)

 

表面的にはルフィと同じようなこと言ってるかもしれないけど、「仲間」じゃなくていい。必要な時には声をかけるし、あなたが私(じゃないとダメなら)を必要な時に声をかけてくれればいい。全力でこたえるから。

 

孤独って、なかなか贅沢な趣味だとは思いませんか?