私の中のワタシを忘れるために

錠剤は一粒ずつしか飲み込めない人が書くブログ。

世界が平和で在るために私ができることをどのように考えればいいのか

車をぶつけられ、廃車になった自分の車に唖然としているところに、たまたま通りかかった見知らぬ人から「わたしの車をあげよう。そこにあるジャガーだ。」と新車のジャガーの鍵をポンと渡されたら、あなたならどうする?

大抵は「そんなことってある?何かの冗談だろ?鍵を開けたら爆発するとか?詐欺??」みたいな反応をするだろう。素直に「ありがとう」と相手に感謝して贈り物を受け取れる自信があるだろうか?

 

多くの人々は口で平和を唱えながらも、本当の意味で心から祈ることができないでいる。

私は子供の頃から自分があまり裕福な家庭でなかったため、正直言うと他人や、ましてやどこ知れぬ世界の平和なんて考えたこともなかったし、そんな余裕もなかったし、そもそも興味がなかった。

「いいこと」をすることが『いいこと』だと思っていたし、「いい人」と「悪い人」を区別することが当たり前になっていたし、誰か困っている人を「助けること」は『素晴らしいこと』だとも思っていた。

 

だけどある時気付いた。

「助けたい」と思う人がいるということは、それと同時に「助けられたい」と思う人を生み出してしまうということに。

意識のベクトルがどこを向いているかによって、結果というのは同時に生まれてしまう。まだ現実に現れていないとしても。

 

人が無欲で奉仕しようとする時、我は消え、言葉では表せない粒から、行動へと流れていくように感じる。

 

平和を願ったり祈ったりしながら、家族とコミュニケーションをとらなかったり、自分の損得勘定で誰かを支配したりすることは、とても滑稽だ。

 

平和授業がなぜ原爆投下の日だけなのか。

原爆に関わる映画や資料をみせるだけで平和に繋がるのか。

震災などにしても、どうして事が起こったその日だけ「Pray for〜」っていうのか。

 

私にとってそれらは疑問ばかりである。

 

 

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