わがままについて考えてみた
多くの人にとって「わがまま」とは悪いイメージがあるようだ。
そしてこの「わがまま」をうまく使えないが為に、近頃の大人たちは気を病んでいる。
そうなってしまった理由の一つとして考えられるのは、子供の頃に言われ続けた「わがまま言ってはいけません。」という親の言葉だろう。
そもそも、「わがまま」とはどういったことを指すのだろう。
【わがまま(我が儘)】
相手、まわりの者の意に反して、無理なことでも自分がしたいままにすること。
というようなことが書かれてあった。
では、わがままと似たニュアンスを持つ「自己中」とはなんだろう。
【自己中心性】
自分自身を物事の中心と定義し、世の中の解釈をすること。また、そのような考えをもとに他人のことを考慮しない行動をすること。
というようなことが書かれてあった。
言い換えれば、「わがまま」とは相手に迷惑をかけることを前提として(自覚)自分の望みを叶えようとすることであり、「自己中」とは相手や周りのことを何も考えずに行動してしまうこと。というように、私は解釈してみた。
そして二つの大きな違いは、意思を伝えるまでに留まるか、それを無視して行動まで及ぶか、といったとこだろうか。
だからか、「わがまま」には可愛気があるイメージだが、「自己中」は乱暴なイメージがある。
子供は自分の力ではお金を稼ぐことはできないし、稼げないから自由に使えるお金もない。車も運転できない。だから、ある程度の年齢までは親に世話してもらわないといけないだけで、それは分かった上で〝ああしてほしい、こうしてほしい〟と、『気持ちが湧いて、口に出す』ことは、人としてごく自然な行動なのだろうと、私は考えた。
その「わがまま」を聞いてあげるのは大人の責任だし、聞いてあげる方法も、大人は考えてみたほうがいいんじゃないかと思う。
例えば、大人はキツイだのメンドくさいだのといった理由をそのまま言わず、「忙しい」や「お金がない」の一点張りで子供のわがままをねじ伏せようとする。
かく言う私もねじ伏せられた子供の一人であり、四人きょうだいの長女というポジションは「お姉ちゃんだから我慢しなさい」というアレのフル活用である。
そのおかげなのか、ある時期までは他人の顔色を伺い、これを言ったら嫌われるかも、この人にはここまで通用するかも、みたいに反応を先回りしてどのような結果になってもいいように自分の要望を調節していたような気がする。
本当の望みではなく、二番目を言ったり。
わがままを言わないというのは一見美徳のように扱われているが、私はそうではないと思っている。
なぜなら、わがままを言わない事で、その人が本当はどうしてほしいのかが隠れているために、正しいコミュニケーションが出来なくなってしまうからだ。
自分にとっても、また、相手にとっても良い事とは言えない。
私はある時期に、「わがままが言えない」事が人とのコミュニケーションを円滑にできない一つの理由だと気付いたので、まずは自分が本当はどうしたいのかに気づくように努力してみた。
長年わがままを言えなかった人は、この「自分が本当は何を望んでいるのか」という部分が麻痺してしまっている。心で湧き上がるものを、頭でねじ伏せてしまう。
しかし、時間はかかっても練習すればできるようになるもので、今では自覚はあまりないけど周りから「わがままだ」と言われるようになった。
これは長年心の牢屋に囚われていたわたしにとって、とても喜ばしいことである。
みんなも思う存分わがままにするがよい。
自分の気持ちに抵抗してそれを感じようとしない人は、その時起こっている出来事を経験することができません。人間は、感じ取って学ぶものなのに、その感じ取る力から自分を切り離してしまっているからです。
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