抽象度について考えてみた
抽象度とは、抽象ー具体の間の度合いのことで、この抽象度が高くなるにつれてより「抽象的な概念、情報」ということ。反対に、抽象度が下がればより「具体的な概念、情報」ということになり、情報を狭い範囲で特定することになる。
「私は動くものです」というとかなりアバウトでぼやっとしているが、「私の名前は〇〇で、〜に住んでおり、◯歳です」というと〝私〟と言っている人の具体的な情報となる。
「俯瞰する」とも似ている。
以前、久々会った中学生時代の友人から「昔から物事を俯瞰してみているような感じがあったよね」と云われた。
昔から比較的ぼやっとしている私は、自分では全然そんなつもりがなかったけど、いわれてみればそうなのかなぁと思った。
昔から周囲の人に共通していわれてきたのが、「普段喋らないけど口を開いたら核心ついたこと言うよね。」といったようなこと。
人に関して言うと、興味はないけど観察するのは好きだからかなと思う。
(虫は、触れないけど観察するのは好き。)
自然と、共通点とか似ている部分(自分対じゃなくても)をサーチしてしまう癖があるようなので、「あの人とあの人はジャンルが似ている」とか、すぐに人を物とか色とか音とかに例えたりしてしまう。
仕事においても、仕入れる商材を決める段階で、「これはチャラチャラしてて外面はいいけど中身ない人みたいだからヤダ。他の持ってきて。」とか「セクシーなスプレー持ってきて」とか言って、たまに見た目のチャラい某バンドマンの材料屋さんを困らせてしまっていると思う。すまん。
抽象的思考に慣れてくると、身の回りの世界の動きに対して先を見通すことができるようになってくる。
その見え方は人それぞれなのかもしれないけど、わたしの場合でいうと、周囲で何かが一斉に壊れだしたら何か節目というか、人生のどこかの領域で新しい流れが生まれるという目安がある。それは人間関係の終わりと始まりかもしれないし、自分が今まで続けてきた何かの終わりと始まりかもしれない。
三回同じことが続けば、それら三回に共通するものを抽出して、そこからメッセージを読み取ったり。
具体的なものを提示されるとそこから出られないような感じがして、ものすごく息苦しくなってしまう。「このような、あのような」の点をいくつもつないでいくような、いつでも遊びがあってどうにでも動けるような感じが得意。
ね、もうこの説明がとても抽象的でわかりにくいよ。
そういえば、以前ある男性に(私なりの)敬意を払う気持ちを込めて、
「〇〇さんって、松本大洋の漫画に出てきそうな雰囲気してますよね。」
と言ったら、
『ねぇ、それ、褒めてないよね?』
と言われ、(あ、、なんかまずかったかな。。)と心の中で思いながら
「いや、なんかほんわかしてカワイイじゃないですか。」
と付け加えたら、
『いや、それフォローになってないよね』
と言われてしまった。。。ちーん
↑この本はクイズ形式になっていて絵本を見るような感覚で抽象度を鍛えれます。
抽象度が上がってくると、絵や映画なども見え方が毎度毎度違ってきて面白いよ。