夢の話にイチローを出すのはもうダサいってば。
自己啓発本なんか読むと、たいていの人が「大きな夢を叶えたひとり」の例え話にイチローをあげている。
その場面(イチローの話)に遭遇すると、私は「チッ」と舌打ちをしたくなってしまう。
エジソンとかアインシュタインならまだ分かる。彼らの「凄さ」は、わかる。
だけど、イチローの凄さはまったくわからない。
「何本安打」(すいません、雰囲気で言ってます)とか言われても、まったく意味がわからないし、まず、脳が受けつける気がない。
私は野球にまったく興味がないんだよ。
そしてイチローにもまったく興味がわかないし、そそられもしない。
だから、イチローのWikiや野球についてググろうと思ったこともない。
なんで多くの人がイチローを取り上げるんだろう。心の底から不思議でならない。
まず、イチローを目指すために子供に野球させる、とかも、ちょっと違うと思ってる。
そもそも、「目指す」って言ってる時点で成長が止まってる。
イチローを目指すってことは、(例えばなれたとして)イチローか、もしくはイチロー未満にしかなれないってことだと思うんですよね。
以前の記事にも書いたけど。
憧れは違うって話。
憧れてるうちは「自分はそこには届かない」って思ってるってこと。
すると、さっきインスタグラムを覗いてたら、アディダスの広告にこんな事が書いてあった。
「オリジナルとは、目指すものではなく、到達点である。」(@adidastokyo)
そう!!それそれー!!!
私が言いたかったのはそーゆうこと。
私は、なれないものは無いと思ってるし、なれないものは「なりたくないもの」だと思ってる。
だから、「目指す」とか「憧れ」とかっていう言葉が、私の中には希薄なのである。
大人について考えてみた
大人ってなんだろう。
仕事についたら?成人したら?お酒を飲めたら?高い腕時計をつけたら?ブラックコーヒーを飲めたら?高いスーツをオーダーメイドしたら?自分の家を持ったら?
こうなったらこうだ。という言い回しで済む物事の、なんと脆くて儚いことか。
だけど現実、人間はそういった道標みたいなものがないとなかなか生きづらいものでもある。
そもそも、大人だからとか子供だからとかに囚われること自体、意味があるのか分からない。
なぜなら人それぞれ「大人」に対する価値観は違うから。
それに、「大人」というのは「状態」だから、自分で分かるものではないし決めるものでもない。
誰かがある人の振る舞いをみて、「あぁ、あの人は大人だなぁ」と見るのである。
では、どんな人を見たときに「大人だなぁ」と思うのか。
ある人に「あなたが思う大人って何ですか?」と質問してみたところ、『何気ない日常の中のふとした気づかい、とかですかね。』という答えが返ってきた。
私も自分なりに考えてみたところ、そんな感じの答えが浮かび上がった。
思いやり、とか、謙虚さ、とか。
思いやりと一言で言ってもアバウトだけど、つまりはその瞬間の相手の気持ちに寄り添ってあげれること。なのかな。
そのためには相手がいまどんな気持ちを味わっているか想像出来ないといけないし、それが想像出来るってことは自分も似たような経験をした事があるってことになる。
すると、大人って、沢山色んなことを経験しているってことになる。
ただ、手当たり次第何でも経験すればいいってもんでもないだろう。それにひとつ付け加えるなら、「逃げずに自分の中で噛み砕いて消化した」ってとこか。
そうする事で、「経験」は「体験」に変わる。
この記事を書き始めたときは、今日が成人式(明日が成人の日?)なんて事は忘れていたのだけれど。
私は映画『マイインターン』を観て、「大人って何なんだろう?と考えてみた次第でございます。
新成人の皆様、おめでとうございます。
頼り方を間違えたらコバンザメに格下げですよ
以前、お笑いの千鳥の大吾が、お給料のほとんどを後輩におごるご飯代につぎ込んでしまって生活費がなくなる。という話を聞いたことがある。
世間一般的にも男性は縦社会で、先輩は後輩に飯をおごるという変な暗黙のルールみたいなものがあるようだが、女性は主に横社会なため、女性同士の先輩後輩関係というものに「ご飯をおごる」というルールは特にないように思う。
こういった男性の縦社会の話を聞くたびに、私はいつも「しょーもないなぁ」と思ってしまうのである。
「あの人はこの業界ですごい人」みたいなのを気にするのも男性社会によくある光景で、それを聞いてもその人自身を知らない私にとっては、その人が「どうすごいのか」わからないので、「ふーん」くらいにしか思わない。
そして(実力があろうがなかろうが)オモテでは幅きかせてチヤホヤされていて、そんな人と知り合いというだけで後ろ盾に寄りかかって強がっている人たちの関係図をはたから見ると、本当に「しょーもない」としか言葉が出ない。
いくらその道ですごい人だとしても、最低限の礼儀さえわきまえて、あとはふつうに接すればいいじゃない。と思ってしまう。
昔、働いてた店のお客さんからデートのお誘いをいただいたことがあって。私は興味なくて断り続けていたのだけれど、すごくしつこくて。しまいにキレたその人が「店を燃やすぞ。俺は山口組のもんと知り合いなんやけの!」みたいな感じで脅しにかかってきたことがあった。
『だけ なん(何)?燃やしたければ燃やせば?私困らないし。』
と言ったらそれからパタッと止んだ。
そもそも当時の私は本気で山口組のことを知らなくて、「私が山口(苗字)じゃ。」と思ったのだけれども。
先に書いた先輩後輩関係も、このコバンザメにも、よくよく観察すると「支配と依存」の関係が成り立っている。
上に立とうとする側は下に依存させることで自分の価値をそこから判断し、下につく側は「すごい人と知り合いの自分」というラベルを身につけることで自分の価値を決める。上に立つ側は下がいないと〝上〟にはなれないため、ある意味〝下〟に依存していることになる。つまり、この「支配と依存」は入れ替えることもできる。
いくらイケメンでも、お金持ってても、いい車にのってても、女にモテても。
一人で何もできないことほどカッコ悪いもんはない。
「支配と依存」の関係から抜けるためには自分自身と向き合い、「自立(自律)」を選ぶことになる。
多くの人は「自立(自律)」を恐れるあまりに、負のスパイラルにとどまる方を選ぶのだろう。
その方が簡単でラクだから。
ティッシュ先生
いまやyoutubeにはいろんな先生がいますけれども、今日、またふいにyoutubeを開いてみると「あなたにオススメ」の中に、とある外国人の英語レクチャー動画がありました。
その一つに『アメリカ人のセッ◯ス後の処理!』というのがあったので、これは放っておくわけにはいかないと思い、再生ボタンを押してみました。
アメリカ人がティッシュを使うのは鼻をかむときだけ。というのはいつしか聞いたことがあったのでふんわりと知っていましたが、言われてみればおせっせの時はどうするかなんて考えてもみないですよね。
この動画のボビー先生がおっしゃるには、アメリカ人はおせっせの後、その濡れたシーツ(ウェットスポットと呼ぶ)の上で寝るらしいです。
この、「今日はどっちが濡れたところで寝るか」というポイントで夫婦喧嘩にまで発展することもあるらしいです。
……いや。それならティッシュで拭けばいいじゃん!!
と考えるのは日本人思考で、拭かない理由は「ロマンティックじゃないから」なんだって。
それは確かに分かるような気がする。
盛り上がってる時はそのほかのことなんか何一つ考えてないのに、絶頂に逝った瞬間カサコソと処理するのは、確かにロマンティックさのカケラもない。さっきまでの甘い言葉も拭き取ってしまうかのような勢い。
このボビー先生も、ジャパニーズの彼女とのおせっせの後、少しがっかりしたらしい。
ボビー先生いわく、ティッシュでの処理はセクシーじゃないし、……あれって結構くっつく。らしいです。
へぇ〜〜知らなかったなぁ〜〜。
そんなにティッシュがくっつくのが嫌なら、そこは女性がすかさずお口で拭き取ってあげて、そのまま二回戦に突入すればよろしいかと。
ティッシュに関する動画はアップできなかったので、代わりにこちらを。
自分自身について考えてみた
昨日、とあるSNSに友達がアップしていた「しいたけ占い」というものを何気なしに開いてみた。すると、そのふざけたネーミングとは対照的に意外と納得できる内容が書かれてあった。
「貴方は本質的には器用ではないのです。ですが、余りにも物事をなんとかしようとする力が平均以上に備わっていて、手を抜かずやり遂げるので、貴方が疲れた!となっていても身近な人には分かってもらえない」
みたいな事が書いてあり、すっごく頷いた。
そう。私は2016年の後半に、「私って実は不器用なんじゃねーの?」と自覚した。
今まで自分では「物事を両立して何でもこなせるマルチタスクタイプ」だと思っていたのだが、自分自身に向き合うにつれ、「もうこんな自分いやだ!」という本来の自分が現れてきて、一旦無理をしないと決めてしまうと色々な事を同時に出来なくなったのである。
人からはよく、「突き抜けている」とか「しっかりしている」とか言われる。
「突き抜けている」ように見えるのは、おそらく「自分の嫌な事はしたくない。出来るだけワガママ通したい。好きなものを手に入れたい。」という完全に自分のことを優先にしか考えてないような背景があるからだろうと思う。
自分にとってムリなものはムリだと言いたいし、気持ちよく過ごしたい。
「しっかり」はしていない。先にも書いたように、平均以上にこなす事が出来るだけで、その水面下にはダラダラした自分が待ち構えている。
恋愛面なども、人からはわりと自由にやってるように見られるみたいなのだが、意外とそうでもない。
現代でよく耳にするような「ソフレ(添い寝だけの人)」とか意味わからないし、もちろんセフレなんて確実にむり。
こんな事言うと古いとか言われるけど、「付き合うってなに?」とか言いながらも、やっぱり「付き合う、別れる」の境界線はきっちり引きたい。
何故なら、私の中に「聖域」みたいなものがあって、それは目に見える部分だと単純に家だったりするのだけど、こうしてブログなんかに赤裸々に書いたり名前も大っぴらにしたり、ある程度は他人に見せていても、最後の「聖域」だけは自分が許した人しか入れたくないという思いが強い。
しいたけ占いにはこんな事も書いてあった。
【あなたが今まで持っていた「なんでも、誰にでも対応する」という一種の鎧や武装がなくなって、いわゆる「負のもの」や「濃いキャラの持ち主たち」に対する防御力が低下します。】
鎧ってそこだったのか!!!
と気づいた。
以前、ある人に「あなたには自分でも気付いてない防具を装備している。普通の人は近寄ったら斬られるのをビビって、迂闊に近寄れない。」みたいなことを言われたのだけど、このことだったのかなぁ。
ということは?
誰にでも何にでも対応しない方が自分にとっては正解ってこと?
あー。でも、そうかもしれない。
「冷たい」って言われたくなくて、武装していたのかもしれない。
まぁともかく、今年の目標は「無理をしない」。あと、攻めでいきます。
自分のことはよく分からないので、今年も皆さんにお世話になります。よろしくお願いいたします。
映画「シェフ」にみる『良い波』に乗る方法
2017年一発目の映画観賞は、今更ながらやっとみた『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』。よくある料理映画かと思っていたら、なんのこっちゃない、現代の流れにうまく乗ったマーケティングのやり方や、仕事とは?といった視点、そして自分に与えられた能力を最大限に引き出す方法や、ハプニングをチャンスに変える逆境に負けないマインドなど、沢山のメッセージが随所にちりばめられていて、テンポもよく観ている私もハッピーな気分になった作品です。
個人的に「グランドイリュージョン」以来の、映画館で観ていたらスタンディングオベーションしたくなるような作品でした。
以下ネタバレあるかも。
先日の記事にも書きましたが、勤めている限り、仕事とは自分の我を出してしまっては上手く回らなくなる場合が沢山あります。
一つの店があるとして、そこのルールを決めるのはオーナーです。従業員はその店を繁盛させるために、自分の出来る限りの能力でその店に貢献すること。この「出来る限りの能力」というものは人それぞれですが、ルールを越え、自己流を通そうとすることはオーナーは求めていないわけです。たとえそのやり方のほうが上手くいくと確信があったとしても。
じゃあそこでどうするか?
やりたいことを我慢してオーナーのやり方に従うのか、それとも、自分のやり方にチャレンジするのか。
この映画の中では、あるハプニングがキッカケでオーナーに「芸術ならよそでやってくれ!」とドヤされ、一流シェフのカールは店を辞め、チャレンジの方へ進みます。
オーナーは同じやり方を続けたい人。「ストーンズのライブに行ってサティスファクションが聴けなかったらガッカリするだろ?」という例えに含む気持ちもよく分かります。
しかしカールにとって、クリエイティブで美しい料理は「生き残る」ための、先鋭的で、自分自身から溢れ出る愛を周囲の人々に伝える方法だったのだろうと、私は感じました。
その証拠に、ボロボロのフードトラックで一からスタートしたカールの活き活きとしたエネルギーは、作り出すサンドイッチを通して人々に伝わり、人気を集めることになります。
ただ、ここでポイントなのがカールの息子パーシーの存在。
いわゆる〝イマドキの子〟で、デジタルネイティヴな彼が勝手にツイッターやVine(今はなくなったのかな?)で情報拡散したのが功を成し、リアルタイムの集客を掴んでいきます。
SNS当たり前な時代の中、これらを上手く取り入れた考えができない堅い頭のビジネスは、これから先自然淘汰は避けられなくなってくるでしょう。
選択肢が無限にあるなか、どれを選ぶかは自分次第。賢く生きて生きたいものですね。
シェフ 三ツ星フードトラック始めました [SPE BEST] [DVD]
- 出版社/メーカー: ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
- 発売日: 2015/12/25
- メディア: DVD
- この商品を含むブログ (3件) を見る
空気は読みません。何故ならめんどくさいから。
先日、とある方と「空気を読むこと」について話していた。
まず、「空気を読む」の定義は何なのだろう?どこからどこまでが読めていて、どこからどこまでが読めていないのだろう。私は少し疑問に思った。
「空気を読む」と似たような意味合いで「顔色を伺う」というのがある。
私は自慢じゃないが、子供の頃から親の顔色を伺い、友達や恋人の顔色を伺いながら今まで生きていた。こうやって自分のことを客観的に見れるのは、今、そうすることをやめているから分かるのである。
しかし、やめたらやめたで今度は「KY」によってしまう。
元々顔色を伺っていたので、あとで振り返ったときに「あ、あの時あぁやって言ったけど、悪かったかな」とかいうふうに、一応気にしてはみるものの、すぐに「ま、いっか。」となるのである。
とにかくめんどくさいのが苦手なので、人とのコミュニケーションも回りくどい言い方をされると話がよく分からなくなってきて、「だからなに?結局何が言いたいの?」と言いそうになるのを必死でこらえている。
だからといって「言わなくてもわかる」のとはちょっと違うし、やっぱり伝えたいことは言葉にしないとダメだなぁとも思う。
誰が最初に「KY」なんて言い出したんだろう。
空気を読んでほしい人は、自分が何も言わなくても察知しろよって思いがあるんでしょう?
そんなのただの傲慢じゃないか。
居てほしいなら居てほしいと、帰ってほしいなら自分の時間を使いたいと、手伝ってほしいなら手伝ってほしいと、口が付いてるならそれを使えばいいじゃないか。
「空気読めてないよね」って言う人(言う側)ほど、自分自身と他者の境界線があいまいのような気がする。