私の中のワタシを忘れるために

錠剤は一粒ずつしか飲み込めない人が書くブログ。

知らないお兄さんに素朴な質問をしてみた

個人的に、これだけは絶対しないというオシャレの仕方がある。

それは、「肩に何かをかける」類いのやつ。

 

昔からあるのは、カーディガンを肩にかけて袖を前で結ぶやつ。

 

あれ、なんなん。

洗濯もん乾いてなかったん?

 

私はどうもあのオシャレの仕方に抵抗がある。

だってカーディガンの袖シワシワになるし。

そもそもカッコイイかカッコよくないかで言ったら、個人的には断然カッコよくない。

もし自分の彼氏がデートにカーディガンを肩にかけてきたら?

私は迷わず「それ、いらんやろ。」って言うとおもう。

 

その肩掛けカーディガンよりも、もっと意味わからんのがある。

あれや。肩に上着かけとるやつや。

おまえはハンガーか?って言いたくなる。

絶対邪魔やん。

肩に上着かけてる人を観察してみたけど、大概がしょっちゅう肩から上着がずり落ちるのをチマチマ直してた。

 

そこまでして、肩にかけなダメ?

 

ちょうどたまたま入った服屋さんでストールを買おうと思いレジに持って行ったら、店員のお兄さんが革ジャンを肩かけしていた。

私はこのチャンスを逃すまいと、すかさずお兄さんに訊いてみることにした。

 

 

私「あのぉ、、素朴な質問してもいいですか?」

 

店員「はい(ニコっ)」

 

私「その、上着を肩にかけてて、邪魔にならないんですか?」

 

店員「邪魔ですよ」

 

私(なんてアッサリ。)

 

店員「いましがた裏で電話とっててですね、出てくるときに羽織ってきたんですよ。あはは」

 

私「そうなんですね」

 

店員「革ジャンだから暑いしですね」

 

私「そうですね」

 

店員「お待たせしました」

 

私「いやぁ、ファッションでかけてるのかと思ってですね。」

 

店員「あはは(苦笑)」

 

 

……とまぁ、訊いたわりにはそんなに興味ないし〝いいとも〟みたいになっちゃってゴメンナサイって感じだったんですが、「上着の肩掛けファッション、実は邪魔」ということが分かりました。

 

まぁ、オシャレはガマン。

って言いますからね。

 

そんな私は昔から「上着を着ない」オシャレが好きなんです。寒くてもあんまり上着を着たくないんです。だってせっかくのオシャレが見えないから。

 

ほら、オシャレはガマン。

って言いますからね。

 

 

正直者は本当にバカをみるのか考えてみた

「正直者は馬鹿をみる」ということわざがあるが、はたしてそれは本当なのだろうか?と考えることがある。

このことわざが指す「正直者」とは、一般的には〝真面目でいい人〟みたいなニュアンスが感じとられるが、これは言葉通りに意味を取った場合と、どう正直なのか?の焦点の当て方によっては、いくぶん意味が違ってくるような気がした。

 

世間一般でいうところの〝真面目でいい人〟に焦点を当ててみると、そこから感じ取れるニュアンスは、誰にも反発しない、嫌ごとも言わない、誰が見ても優しい、といったところだろうか。一見これらは〝良い〟とされ「協調性のある人」と言われる場合もある。

しかし私の個人的なイメージで言えば、「協調性」という言葉は「妥協してなぁなぁでやり過ごす」みたいなものがあるため、協調性のある人=自己主張が乏しい人みたいな感覚がある。嫌ごとを言わないのも、裏を返せばその人は自分の心の声に嘘をついている時があるということになる。

そのため、本人のことをよく知らないうちから「あの人は真面目でいい人よ」と言われても、正直その言葉は信用できない。

 

「どう正直なのか?」という部分に焦点を当てたとき、私の中での〝正直さ〟というものは、他人が何と言おうが自分の中に確実に感じるものを外(他人)にも中(自分)にも表現する。というニュアンスがある。

外見や表現の仕方はそれぞれあったとしても、「自分の中に感じとるものを表に出す」という意味で言えば一貫していると私は思う。

 

これらを踏まえて「正直者は本当にバカをみるのか?」考えてみると、バカはみる。ただし、バカの見え方が違う。なのである意味バカはみない。という結果が見えてくる。

 

先に書いた〝正直者〟は「自分ばかり真面目にやって評価されない」といったようなことを感じるだろうし、後に書いた〝正直者〟は理解を得られないことが多いだろうと思う。どちらが良いとか悪いとかではなく、自分の生きやすい生き方を選べばいいんじゃないかと思う。

 

私は思ってもないことを口にするのはどうも向いてない。なのでお世辞が言えない。社交辞令も苦手なので、真に受けてしまって相手に変に思われたことも今までたくさんあると思う。〔今は調子を合わせる技を習得したけど、疲れるし、基本〝合わせること(ジョーク)〟さえ楽しくないと合わせるのが面倒くさいとも思っている〕

 

犯罪者によくある「あの人は真面目でいい人だったのに」というのは、先に書いた〝正直者〟にあたるんじゃなかろうか、と、ふと思った。

 

罪悪感があるんでしょ?しってるよ。

棚ボタ的なラッキーを素直に喜べない人がいた。過剰に「私なんかがこんな上等なものを使えるなんて」と、ラッキーな出来事に恐れを抱いているようだった。

 

以前、友人が「かわいいねって言われるとなんて言って返していいかわからなくなる。」と言っていた。だから私は友人に、「なんで?素直にありがとうございます♡てゆっとけばいいじゃん。」と言った。そしたら「そっか。」と納得していた。それから後日、友人は「ありがとうが言えるようになった」と嬉しそうに言っていた。

 

誰かのことが浮かんで、「あ、これはあの人にあげよう。」と純粋に考えてあげたものを、「私には見合わない(価値がない)から」と遠慮したり、貰ってすぐお返しをすることを考えているのは、本当の意味で受け取っていないし差し出した相手を傷つけていることになる。

それはモノでも言葉でも同じことがいえる。

 

何かをもらったなら、「差し出してくれた行為」に対しての「ありがとう」がそこに在る。その次に、そのモノに対して自分がどうするかを決めればいい。

 

私は仕事柄よく差し入れをいただく。

人は自分がいいと思ったものを人にあげてしまう。

お互いの関わり方が密なら「あの人はこれが好きだったな」とか「あの人いつもこんな感じの雰囲気だよね」といったように『いつも』を感じ取る割合が多いのだが、私とお客様の関わり方というのは様々で、2,3ヶ月に一回のお客様でおばあちゃん世代となると、もちろんSNSもしてないから私のことなんかは「2,3ヶ月に2時間程度会う」くらいの情報でしかない。

すると、おばあちゃんは私が何を好きなのか知る由もなく、知ったとしても忘れるため、私がお菓子の中で一番食べれない砂糖菓子(ほら、おばあちゃんちには必ずあるでしょ。)などもいただく。

 

もちろん「ありがとうございます」と受け取る。これ美味しいですよね、とか、好きなんです、とか、嘘は絶対言わない。

だけど、私は食べれない。だから、コレを好きな人にあげる。その方がみんなが嬉しい。

 

もし突っ込んで聞かれたら?

その時は素直に言う。

「ごめんなさい、実は私コレ苦手なんです。」

「でも、母が好きなので頂いてもいいですか?」と、母のとこだけ少し嘘をつく。

 

映画にもなったけど、「MARS」っていう漫画で零(れい)が子供時代以来に久々会ったおばちゃんに「弟さんも元気にしてるの?」と聞かれたときに「はい、元気ですよ」とウソをついた(本当は亡くなっている)。

そのとき零がこう言う。

 

「もうこの先いつ会うかもわからない人に、本当のこと言って哀しませる必要はない」と。

(正確には覚えてないけどこんなニュアンス)

 

この零の、冷たくみえて裏を返せば優しさがとても印象にのこっている。

 

なぜそう言うのか?

おそらくそれは、「言われて傷ついた経験があるから」だろうと私はおもう。

 

このときの零の〝嘘〟には共感できるけど、オトコの人の言う(思ってる)「優しい嘘」って、ぜんっぜん、優しくないよね。って、不倫してた時にいつも思ってたなぁ。

 

 

 

saihate.hatenablog.com

 

 

 

眺めるだけの満足

はっぴー野郎は信用してない。

なぜなら自分の毒を隠してるから。いや、自分に毒なんてないことにしてるから。いや、自分の毒に気づかないフリをしてるから? 毒イコール愚痴ではない。毒は必要だ。じゃないと存在できない。はっぴー野郎は毒を否定している。だから本当の意味では生きていない。生きながら死んでいる。「美しい世界を見たい」なんて言ってるうちは美しいもんなんか見えない。だって立っているそこは「美しい世界」じゃないとこだから。美しいものイコール自然じゃないし、美しいものイコール煌びやかなもんでもない。世の中が腐って見えるならあなたが腐ってるってことだ。馬の鼻先にニンジンがぶら下がっているように、一生ぐるぐる回りつづければいい。

 

 

 

※「今日のブログのネタを下さい」と祈ったらこんなことになりました。右手のつぶやきです。でもわたしもはっぴー野郎は信用していません。

憧れてる時点で手のばしてる方向違うから。

いつからか、アーティストにサインを貰ったり一緒に写真撮ってもらったりする行為がばかばかしく思えてきた。というような内容を以前にもブログに書いたような気がするけれど、思うことがあったのでまた書いておきます。かぶってたらごめんなさい。

 

なんだろう。「憧れ」とか「崇拝」というのは一見ステキな仮面をかぶっているが、側からみると少々危険でもある。

 

私は美容師という仕事をしている。

先日、私には珍しく久々講習会に参加した。理由は何となく気になったから。

その日の講師は東京の美容室のオーナーさんで、新作のカラー剤の紹介と、それを使ったメニュー提案の仕方などといった内容だった。

わりと名の知れた方らしいのだが、私は美容師アレルギーなので全く知らず、そのおかげで先入観なく講習を受けることができた。

オーナーさんの考え方には共感できる部分が多く、その方自身がとてもパワフルだったのもあり、パワーをもらえたし、話を聞きながら自分の店と照らし合わせ、参考になる部分をメモしながら頭の中でシュミレートしてみたりして、行ってよかったなと思えた。

 

「すごいな」とは思ったが、「あの人みたいになりたい」とは思わなかった。

 

「出来てる人がいるなら自分にも出来るはず」

そう考えれるかどうかで未来は随分と変わってくると、私は思っている。

 

何から手をつけていいか分からない時は、目標にする人の真似をとりあえずするのもいいと思う。でもそれは最初の入り口にしか使えない。

 

本気でやりたい分野で「憧れ」や「崇拝」は邪魔でしかない。その時点で自分は最高に頑張っても2番にしかなれない。

 

 

なんで、みんな過剰にペコペコするんだろう?

……と思って。

 

元祖サブカルクソ女がオススメする90年代オルタナティブな少女漫画5選

小学生時代に「サブカル女」という言葉があったなら、おそらくその部類に入っていただろう。そして周りの友達も「サブカル女」が多かったように思う。

漫画のこととか洋服のこととか音楽のこととか。前回の記事のおかげでいろいろ思い出したことがあるけど、まぁ、さして今とあんまり変わってないなというのが正直な感想。

というわけで、その〝いろいろ思い出した〟中から、あの頃読んでた少女漫画の中から特に好きだった漫画をリストアップしてみました。 

 

美人なのにおかしい人

 美人でスタイル抜群、孤独を愛する通称ウルフ(ちゃんと佐伯さんという名前がある)が、言っちゃいけないことややっちゃいけないことを堂々と繰り広げるギャグ漫画です。内容も面白いんですが、ウルフが着ているお洋服がとても可愛くてセンス良くて好きでした。 

 

悪魔は美しくないと誰もついてこないでしょ

悪魔の花嫁 1 (プリンセスコミックス)

悪魔の花嫁 1 (プリンセスコミックス)

 

 プリンセスコミックスといえば「王家の紋章」ですが、私はこの「悪魔の花嫁」が大好きでした。前世で相思相愛だったという理由で主人公.美奈子につきまとう悪魔のデイモス。結構人が死にます。そんなところが好きでした。

 

くだらなさならナンバーワン

「少女漫画界に咲くどくだみの花」岡田あーみん先生をご存知でしょうか。子供の頃から「くだらないものマニア」だった私には外せない一人、岡田あーみん。このほかにも「お父さんは心配性」もオススメですが、あえて伝説をお届けします。これも人が死にます。でもすぐ生き返ります。ギャグ漫画ならではのってやつ。黒いです。

こいつら100%伝説 全3巻 完結セット (りぼんマスコットコミックス)

こいつら100%伝説 全3巻 完結セット (りぼんマスコットコミックス)

 

 

世にも奇妙な……的

「少女漫画」ってかきましたが、一つだけ少年漫画から。透明人間になりたい男が「透明人間になる薬」をオカルトショップで盗み、味しめて調子のって『一生透明人間になったらお金も盗めるしねーちゃんの裸も見たい放題じゃねぇかゲヘヘ』と薬を過剰摂取し、元に戻らなくなったそばからトラックに跳ねられ、見えないから誰にも助けてもらえずに道端で死んで腐敗する。という話が好きでした。容量、用法はお守りくださいね。

 

少女漫画界の女王様 

と言っても過言はないでしょう。私にとって一条ゆかり先生といえばこの「有閑倶楽部」。個性的過ぎるキャラばかりなのに誰も埋もれない。友達と有閑倶楽部ごっこをしてなー。〝ごっこ〟と言っても私たちは一般庶民なのであんな金持ちの遊びなんてするわけでなく、ただキャラを決めて普通に遊ぶってだけです。交換日記とかしてましたね、懐かしい。

 

ざっと見ると、人が死ぬ漫画が多めですね。

 

サブカルクソ女

小学生の卒業文集に「尊敬するひと」という欄があって、私は書き出すのに随分と悩んだ。

 

当時の私にとって尊敬するひとなんているわけもなく、というか考えたこともなく。クラスメイトが〝おとうさん〟やら〝お母さん〟やらと書く中、私は結局「ルノワール」と書いた。

 

なぜルノワールと書いたかは覚えてないけど、おそらく何かの教科書か図書館かで見た、あの有名な青いリボンの少女の肖像画がお気に入りだった。

 

私が「ルノワール」と書いたそばからソレをのぞき見していた男子が、「なんでルノワールなん?ルノワールち誰なん?普通お父さんとかお母さんやろ〜!」と言って小馬鹿にした。

 

私はそのとき思った。

何で尊敬するひとがお父さんとかお母さんなん?親は好きだけど尊敬とはちがくない??強いて言うならルノワールとかになるやろ。ルノワールはすごいよ、光の表現が。うちの親はあんな光描けんよ?と。

 

そして、「将来の夢」の欄には、「絵描きをしながら美容師をする」みたいなことを書いたような気がする。

 

小学生の私はそんなに絵を描くことが好きだったんだろうか。

小学生のわたしよ、絵は描いてないけど、美容師にはなってるぞ。しかも、店、出したぞ。

 

もう少し時を遡り、保育園時代。

一人一枚の色紙に、絵と文(つまりポエム的な)を描かされた記憶がある。

オカッパの黒髪で前歯の抜けたサブカル女は、シロツメクサの絵を描き、刹那さ溢れる文を添えていた。(残念ながら内容は覚えてない)

 

ぞう組さんのわたしよ、ポエマーにはなってないけど、ブロガーにはなってるぞ。しかも、何人かおもしろいって言ってくれてるぞ。よかったな。