私の中のワタシを忘れるために

錠剤は一粒ずつしか飲み込めない人が書くブログ。

幸福の水準について考えてみた

こんばんは。パンツを裏返しに履いたまま気づかずに1日をもうすぐ過ごし終えそうだった、マスミです。まだ夕方なのでセーフ。

ちょいとまえ、同じ歳の男性の知人が「オレ、ついに家を建てたよ!」とわざわざLINEをよこしてきたので、まったく興味がなかったのですが頑張って頑張って「へぇ!よかったね。」とだけ返信しました。そしたらば、「すごくない?」(…あれ?)みたいな返事が来たので、なんかテキトーにスタンプを送ったような気がします。LINEのよさはこんな時に感じますね。とても便利。

後日また話す機会があり、「最初は達成感もあったし新しい家で楽しかったけど、最初だけだった。もう3カ月も過ぎたらどうでもよくなった。」…って。。飽きるの早いだろ!

「何か家に対して拘ったとことかないの?例えば、自分の場所として書斎的なのをつくったとか…」

『ない』

「じゃあなぜ家を建てたの?」

『なんとなく』

「。。。。。」

なんとなく…か。ある意味スゴイよ。
このときわたしは、夕陽を眺めながら河原で体操座りをしている気分になりました。む、虚しい。。。

もしかしたら、彼にとって「家を建てる」ことが〝幸せになる〟とイコールになっていたのかもしれませんね。わかんないけど。

【家が無くなる】

実はわたしは高校生のとき、住む家が無くなったことがある。何か災害があって倒壊したとか、火事で焼けたとか、そういう仕方ない理由などではなく、当時祖父が雇われ店長的なポジションで経営していた車の整備工場の経営が滞り、工場と家を取り壊して売るとか何とかの理由で、私達は有無を言わさずに家を出ることになった。しかも、次の家を見つける間もなくすぐに。

工場の持ち主の好意で(かどうかは分からないが)、とりあえずの仮住まいを用意してくれたけど、住まいというか、「掘っ立て小屋」と呼んでもいいようなプレハブだった。これから夏になろうという時期のプレハブ小屋は、無料のサウナ同然だった。

引越しをする日は決まっていたけど、その日わたしは学校があり、プレハブ小屋の場所もよくわからないままとりあえず学校に行ったのだけど、学校に行ってる間に引越しが終わり、普通にそれまでの家に帰ったわたしは「置いてかれた!!」と真剣に思ってしまった。

家にはもう処分するものばかりしかなく、その中に私のお気に入りの深緑の自転車が置かれたままだったのを、今でも覚えている。(もちろん救出した)

【六畳二間の犬小屋で新生活のはじまり】

両親、兄弟四人、祖父。タンスを置いて無理やり部屋を区切り、海の家のような風呂とトイレ付きのベニヤ板で出来た掘っ立て小屋で、計7人家族での新生活がスタートした。「新生活」というと、とても華々しく未来があるような雰囲気がするが、当時のわたしにはとても未来があるようには思えなかった。

夏場のトイレにはウジがわき、毎回びくびくしながら用をたさなきゃいけなかったし、スキマだらけなので虫は当たり前に入ってくる。「雨風しのげるだけ、まだマシか」と思うしかない状況。絵に描いたような、THE.貧乏。

【他人とは比べれないが自分と自分を比べることは出来る】

いままで生きてきた過去を振り返ってみると、多分私の中でこの頃が最低ラインだったような気がする。
他の皆んなは当たり前にある(と思い込んでいる)住む家がないということ、それを知られるのが恥ずかしく平静を装うこと、大人達のだらしなさへのどうしょうもない憤り、自分もしっかりしなきゃというプレッシャーなど、なかなか経験できないことを経験させてもらったなぁとおもう。

いまの私の根底にある、「モノがなくても智慧があればどうにかなる、なんとかなる」というのは、このときの経験があったからこそ、より色濃くなっているのかもしれない。

【世界は段々と生きやすくなるようになっている】

年長者に多い、「あの頃はよかった」症候群。わたしは今より過去が良いなんて事はないと信じている。

あらゆるものは常に変化していて、終わりと始まりを繰り返している。永遠に。

世の中は確かに便利になっていく一方だが、カタチはどうであれ私達はどこかでその恩恵を受けている。
世界のどこかで戦争があっているとしても、いま自分の居るこの場所では戦争は、ない。失われるものがあれば得るものが必ずあり、「昔のような」自給自足の生活を望むなら、そうすることも選べる。そう、私達は一人一人に〝選ぶ〟という権利があるのだ。

わたしはいま、縛られることを極力捨て、〝責任〟を選び取り、ひとりで仕事をさせてもらい、裕福ではないけれどごく普通に、自由に生活させてもらっている。

わたしにとって、こうなれば幸せという「幸福のゴール」というものはひとつではないし、毎瞬毎瞬がゴールであり、ゴールなんてものはひとつも無いのだ。