私の中のワタシを忘れるために

錠剤は一粒ずつしか飲み込めない人が書くブログ。

アフガニスタンに呼び寄せられそうになった話

私は以前から、本業の美容師の他にアクセサリーを作って販売するという地味な作業もしている。(気分屋な性質なため最近はストップ中)

何年か前、そのとき主に海外の人たちに流行っていた(ように感じた)インスタグラムのようなSNSがあり、私はこっそりそこにもアカウントを作った。

自分が作ったアクセサリーを海外向け販売してみようと企み、そのアカウントでは主に作った作品たちをコツコツ載せていた。

 

すると、日本から遠く離れた国、アフガニスタンの男性が「このアクセサリーを買いたい」とコメントを残してくれた。「viberっていうアプリ使ってる?」と聞かれた私はすぐにそのviber(LINEとほぼ同じ機能)とやらをダウンロードし、第一声に「ハロー」と送った。もちろんやり取りは全て英語である。

アフガニスタンと聞くとそれまでの私の中には「侵略」とか「内戦」「武装勢力」とか、砂埃まみれのイメージしかなかったのだけれど、そのようなものは偏見だったと知った。もちろんそのような地区もあるが、その男性が住む地域は私たちとあまり変わらない、むしろ田んぼとイオンしかない私の住む町より活気がある街だった。

海外に向けて個人間で発送するには、EMS(国際スピード郵便)

EMS(国際スピード郵便) - 日本郵便

という国際郵便があることが調べてわかったのだが、航空便と船便があり、速さをとるならEMSの航空便だけど送料が結構高くなる。船便はそれよりも安いのだけど、船だけに結構日数がかかる。

アフガニスタンだから、確かどっちにしても送料がかかったので、初めてだし練習も兼ねる気持ちで送料はこっちで負担しようと思った。

実際に郵便局に荷物を持っていくと、局員さんが「これだとエアメール扱いで送れますよ」と教えてくれた。まじか!!っと声に出そうだった。

結局、普通に住所と名前を書いただけの定型より少し大きめ(つまり定形外扱い)の茶封筒に入ったアクセサリーは、海を越え国境を越えてアフガニスタンへと出発した。

そんな感じでアクセサリーを販売する手続きなどを済ませ、「発送したから一週間か二週間くらい待っててね!」と連絡した。

 

それからどれくらいで着いたか忘れたが、「着いたよ!」という連絡があった。

「とっても美しい!ありがとう!」といたく喜んでくれたので、私もとても嬉しかった。それに、自分の作ったものが遠い国まで旅立ったことに、とても興奮したのを覚えている。

 

その彼とは「販売」だけでは終わらず、それからちょいちょいviberを通して連絡がくるようになった。私も、まぁ英語の勉強にもなるし、いいか。くらいに思っていた。

 

彼は歳を聞くと18か19歳くらい(忘れた)だと教えてくれたのだが、写真で見る限りではヒゲがもじゃもじゃだったし車も運転していたし、ジムに行って体はマッチョで、どう若く見積もっても25は過ぎてるような気がしたが、「アフガニスタンの人はそんな感じなのだろう」とあまり深くは考えなかった。今思うとからかわれていたのかもしれない。

「結婚してるの??」と聞かれたので、「してないよー。あなたは?」と聞き返すと「してないしガールフレンドもいないよー。」と返ってきた。

困った。私の、興味がない人への対応力は世界共通らしく、ましてや英語で話さないといけないため、会話しようと思っても単語がわからなかったらいちいち調べてから適当に文にして(チャットなので)…なんてやってるとめんどくさくなってきた。

とりあえず、好きな食べ物とか、そっちのメイン料理は何?みたいなことを聞いたりしたような気がする。米はあるよ!と教えてくれた。

彼の家の写真を見せてくれたり、兄弟の写真を見せてくれたりして、結構広くゴージャスなおうちを見せてもらった後に自分の部屋を見渡すと、一人で持て余していた2DKのアパートが、なんだか狭っくるしいなぁと感じた。あとは飼い猫の写真を送ってみたりした。

最初は初めて海外の人と会話をすることが新鮮で楽しかったのだけど、そう思ったのはほんの数日で、次第に彼からの連絡が嵐のようにひゅんひゅんやってくるようになった。

 

「グッモーニン、マスミ!」

「今何してるの??」

「どこにいるの??」

「おーい、マスミー!何してるのー??」

「ハロー、アイミスユーソーマッチ!」

「なんでほったらかすのー?」

「何してるのー??」

(もちろん全て英語です)

 

「I miss you.」のオンパレードに超絶うざくなった私は自分のiPhoneからviberを消し、SNSも消した。

 

以前の私は「自由」を求めて、海外に行くことにも憧れのようなものがあった。日本に住みづらささえ感じていた。

だけど、この一件で3つのことを学んだ。

 

小物ならEMSじゃなくエアメールでも送れる。

海外の男も日本の男も大して変わらない。

そして、自由はどこかではなく自分の中にあるのだ。と。

 

ドリルを買う人はドリルが欲しいわけじゃない。その人が本当に欲しいのは「穴」である。

先日、冷蔵庫から出したばかりの四角いバターを、専用じゃないナイフで切ろうとした。人差し指をナイフの背に添えてゆっくりと力を入れた。

「ミシッ ミシミシッ」

鳴るはずのない場所からはっきりと音がした。

もう一週間ほどになるけれど、指、痛い。

 

「便利なものがあるよ。」

と、バターを網目状に一気にカットできちゃう、しかもケースにそのまま入れておけるやつを教えてもらった。

世の中には便利なものが、あるんですねぇ。

 

曙産業 カットできちゃうバターケース ST-3005

曙産業 カットできちゃうバターケース ST-3005

 

 

私たちは時に、自分が本当に欲しいものがわからないことがある。

Aさんにとって「愛」とは、目に見えるもの、形としてわかるもの、例えば「お金を稼いでくること」「何かをしてあげること」だったりする。それは総じて『物質的な世界』のことで、Aさんにとって「愛」を与えれてるか受け取れているかを測るモノサシは『 物質的世界』になる。つまり、Aさんがかけているメガネは「物質」(カタチとして分かるもの)しか見えない。

Bさんにとって「愛」とは、目には見えないもの、形に囚われないもの、例えば「信頼の上に成り立つ自由」だったりする。それは総じて『精神的世界』のことで、Bさんにとって「愛」を与えれているか受け取れているかを測るモノサシは『精神的世界』になる。つまり、Bさんがかけているメガネは「目に見えないもの」も見える。

 

Aさんは「お金を稼ぐこと」を相手に与える(差し出す)ことが自分にとっての愛の行動と信じているため、Bさんと一緒に過ごす時間も惜しんでとにかく仕事を頑張る。Bさんのためにと信じて。例えば出張先の父親がたまに子供にポンと大きなモノをプレゼントするかのように。

Bさんは「目に見えないけど感じるもの」に愛の重きを置いている。モノを手にすることよりも、自分と相手の間に交流して生まれる〝状態〟によって愛を受け取る。そのため、相手にも自分が受け取って嬉しいものを差し出そうとする。空間や時間、そして信頼に基づく自由を。

双方の「愛に対する意味合い」が一致していなければ、一方はいらないと言い、もう一方は受け取ってもらえないと言うだろう。表現方法は違えど、お互いの根本的な部分は同じなのだ。「いらないのにどんどんくる(重たいと感じる)」「受け取って欲しいのに反応がない(自分の価値を感じられない)」それらに共通して言えるのは『愛じゃない』ということになる。

 

これらは一例に過ぎず、いろんな表現の仕方があるんだろうと思う。人が「愛されていない」と嘆く時、自分の存在価値を自分で認めれていないことが多いように感じる。そして自分が「本当に求めるもの」がわかっていない。

このような時の自分自身に対する正しい質問の仕方は、

自分は結局のところ、何を求めているのだろうか?

絶対にコレ(この人、ここ)じゃないとダメな理由は?

といった感じだろうか。

 

相手の言葉に含む意味を知るためには、まずは相手の言語を知るところから始めなければいけない。

好きになった人が外国の人だったら、まずその人と意思疎通したくて相手の国の言葉を理解しようと努力するでしょう。それと一緒なんだろうと思う。

 

ところで、バターをカットするやつを買ったのかって?

買いませんよ。

私が本当に欲しいのは「任しとけ!」って言いながら硬いバターを切ってくれる「手」なんだから。

 

どの手にしようかな?

 

 

 

ジャッキーチェンみて強くなった気分になるタイプならバディリッチ聴きながら帰るしかない映画

手元にお菓子とコーヒーを準備し、iPhoneにヘッドホンを差し込み、装着し、ソファに埋まり込み、ふわふわのクッションを抱きしめる。さぁいつでもオーケー。Netflix(ネットフリックス)の旅へ出発します。

 

本日の目的地は、鬼以上に鬼教師が率いるジャズバンドの練習を見学するプラン、『セッション』です。

音楽ものはヘッドホンが欠かせません。私の愛用ヘッドホンはこちら。

 

 

 

特に音にこだわったわけではなく、ある時どうしても密閉型のヘッドホンが欲しくなった時に近くの店に行ったら、たまたまそこにあった中から一番かわいいやつを選んだだけです。因みに置いてある種類があまりなく、確か三択くらいで選んだものです。

その割には、まぁ、なかなか使えますよ。

縮むしね。あと、頭にフィットしてズレません。ぴちぃーっとします。

 

でね、そうそう、『セッション』ね。

その辺のホラーより心臓にわるいです。

例えば、見知らぬ人に通りすがりに頭を叩かれたとしたら、「え?なんで?痛いし、なんで?は?え?」みたいになると思うんですけど、私はその時の顔をしながら観てました。観入ってました。

 

仕事おわって職場で観てたんですが、観おわって帰る際、カーステレオが勝手にアートスクールを流し出すのをすかさず止めますよね。で、iPhoneからバディリッチかけますよね。

 

帰り道にファミマで買った雑穀米と豚汁の匂いを車内に漂わせながら、「あれ?わたし、信号ちゃんと守ったっけ?」……という感じになる、そんな映画です。

 

(正確にはマックスローチを聴きながら帰りました。)

 

衝撃。

 

P,S ニコルの気持ち、すごく分かるわ。 

 

 

大金持ちになりたいわけじゃないけどもうちょっと余裕があったらいいなと思ってる人が読む本

 私は日常の中でちょっとしたモヤモヤを癒したい時に本屋に行く癖があります。欲しい本めがけて行くのとは別に、サラリーマンがスナックの姉ちゃんに会いに行くような感じで、私は本屋に行くのです。

先日、仕事を終えてそんな気分だったので、閉店間近の本屋に滑り込んでみました。早足でさーっと一通り見回していくと、一冊の本が目にはいってきました。

 

 

金持ち体質と貧乏体質

金持ち体質と貧乏体質

 

 お金に関するタイトルだからかビジネス書のコーナーに平積みされていたけれど、中をパラパラめくるとテクニックというよりも、なんだろう、メンタルカウンセリングといった感じで、自分の在り方から壊して建て替えるような内容だったため、なんとなく気になりそのままレジに持って行きました。

 

先日私は自分のブログにも書いたけれど、「自分中心」と「他者中心」で生きる場合の具体的な違いや、まぁ、大まかに言えば巷に腐るほどある成功法(思考は現実になる、的な)みたいなものを、もっと細かく刻んで「なんでそうなるのか、なんでそうならないのか」といったような切り口で詳しく説明されています。

 

私は悩み相談をされることも多くて、話を聞いているとその悩みの原因のほとんどが「自分は本当はどうしたいのか」が自分自身でわかってないことに至るような気がしました。わかってないというか、見えてないと言えばいいのか。とにかくそんな感じだから、本当に欲しいものが目の前にあっても気づいてない場合もたくさんあります。すでに持ってるのに「持ってない」と言ったりもします。

私たちが「お金がない」と言う時、それはお金が1円もないことはほとんどなく、〝誰かと比べて〟ないと言っています。

そういう微細な目に見えない〝意識〟というものがやがて言葉や行動への習慣となり、その人の性質となり、事象に現れていくのです。

 

私は商売をしていますが、以前は「他者中心」で生きていたため、自分が差し出すものに対して受け取っていい正当な額に罪悪感を感じたり、自分に自信がなかったため自分自身に価値を置かず、無理を言うお客さんの言いなりになっていた時期もありました。「他者中心」って、人に自分の価値を決めてもらうってことです。今じゃとても考えられないけれど。

 

それだけ「自分中心」に生きることって大事なんですよ。

ってことがたくさん書いてあります。

 

それと、お金がないことは恥ずかしいことではありません。誰だって一時的にお金が急激になくなることってあると思います。でもその「ない」の物差しも自分だけのものでしかなく、どうにかしようと(考えること、行動すること)すれば、必ずどうにかなるものです。

変な見栄っ張りの方がよっぽど恥ずかしいなと思います。

 

ホテルを味わいに行った話

以前もちらっと「私は旅行にあまり興味がない」というようなことを書いたような気がするが、よくよく考えてみると、私は観光よりも泊まるホテルを堪能する方が好きなのだ。ということに気づいた。

何年か前、ライヴで知り合った年下の子に飲みに誘われたのだが、その子が市内の方だったため福岡の繁華街に繰り出すことになった。

私は普段全くと言っていいほどお酒を飲まない。だけど、運転しなくていいのなら、たまには気分に任せてちょびっと飲みたくなる時もある。

私が住む場所まで電車で帰るには、シンデレラよりも早く帰り支度をしないといけなくなる。「たまにはいいか」と、繁華街近くのビジネスホテルを取り、一泊して帰るという手段をとった。

 

その子と飲みに行く事も楽しみだったが、正直言うと、ちょっとだけホテルに泊まることの方が楽しみの度合いが大きかった。

 

先に荷物を置きたかったのでチェックインを済ませ、部屋に入る。

部屋に一歩入れば、その瞬間から帰るまでは私の部屋となる。

小綺麗に整頓された部屋、座り心地の良いソファ、まっさらなベッドのシーツに「ぼふぅっ」とダイブするのはお決まりだし、雪の日の朝いちばんに足跡をつけまくる感覚に似ている。

あの瞬間が大好きなのだ。

 

いや、そんな悠長なことをしている暇はない。待ち合わせの時間をすでに過ぎていたんだった。あぁ、もう、飲みに行かずに部屋にいたい。……とまで思った。

渋々、靴紐のしめつけから解放されたばかりの足にマーチンのブーツを履き、後ろ髪を引かれる思いで待ち合わせ場所へと向かった。

 

お酒をそう飲めるわけでもなく、一通り食事も済ませた後カラオケに行くことになり、その子の終電の時間が迫ってきたところで別れ、私はまたホテルへと向かった。

 

都会は夜遅くまで本屋もコーヒー屋も開いている。なんて素晴らしいんだ。と思いながら、ホテルに帰る前に本を一冊買い、コーヒーをテイクアウトして部屋に戻った。

いま思い出してもウキウキするくらい、その時はウキウキしていたと思う。

ソファに座ったりベッドでゴロゴロしたり、思う存分空間を楽しみ、寝るのも惜しみながら布団に入った。

 

そのホテルの下にはチェーン店のコーヒー屋が入っていたため、朝食はそこのプレートとコーヒーのセットだった。

朝食の時間になると、昨夜は一切顔を合わせなかった宿泊客が集まる。あの感じもまた、ホテルを味わうひとつに入る。

 

11時くらいのチェックアウトだったため、朝食を済ませたあとも時間いっぱいまで部屋でのんびりする。

「あー、この部屋ともさよならかー」とか言ったり言わなかったりして、部屋をあとにする。

 

これが、私のホテルの楽しみ方である。

 

 

一回自己中始めたらもうやめられない

「いつもブログ読んでます!…でも、客商売しててあんな毒舌なこと書いちゃって大丈夫なんですか?」

というような言葉をいただきました。

 

率直に言います。大丈夫です。

 

私はブログを始める時に、自分に対してのルールを課しました。

 

①、自分にとっての真実を書く

②、誰かの悪口は書かない

③、気分が乗らない時は無理しない

④、人生の登場人物に敬意を払うための場として使う

大まかなルールはこの四つですかね。

 

誰かに向けて書いてるような内容もありますが、それは「過去の自分」に対して書いています。登場人物は実在する人ですが、もちろん特定出来ないように配慮してますし、登場させるすべての人に「ありがとう」を込めて書いています。だから、ラブレターなんです。(ABOUTをご覧ください)

 

「お客さんとかが読んで、〝え?これわたしのこと?〟とか思われたらどうするんですか?」とも言われたのですが、ハッキリ言ってそんなこと知りません。そんな、『誰かにどう思われたらどうしよう』なんてとこまで私は責任を負えません。

おもしろいねって言ってくれる人もいれば、言わないけど不快に感じる人もいるかもしれません。先日も、「たまに痛いとこ突かれる」という感想もいただきました。

それでいいと、私は思っています。

全員が全員「いいね!」と言ってくれるなんて、最初から期待してません。そんなこと絶対にないし、あったら気持ちわるい。(嬉しいけど)

 

そして、「え?わたしのこと?」とリアルに感じる理由をあげるならば、それはすでに私が実際に経験して知ったことや分かったことしか書いていないからかな?と思います。

 

『あるある〜!私もそう思ったことあるわ〜』っていう風に、私のブログを利用していただければ本望です。

 

もし、私のブログを読んでモヤモヤした場合は、チャンスだと思ってもらって構いません。

当たり前だと思っている「自分がいまいる枠」から、抜け出すチャンスです。

何故なら、モヤモヤするということは、自分が見たくない、認めたくない部分を目の前に置かれたということだからです。

そこに向き合わないと、人間は一生小さい箱に首突っ込んだまま死んでいくんだな、ということを私は実感しました。

だからといって、これを読んでるあなたがどうするかは、私にはどうでもいいことです。

何故なら、自分のことは自分にしか、どうにも出来ないからです。

 

まぁ、考え方次第では、どうにでもなるってことです。

 

自分が持ってるパワーに気づくのはなかなか難しいかもしれないけど、生きてく上で大事なことだねって、最近改めて感じました。

そのためのブログ(アウトプットの場)でもあります。

 

 

知らないお兄さんに素朴な質問をしてみた

個人的に、これだけは絶対しないというオシャレの仕方がある。

それは、「肩に何かをかける」類いのやつ。

 

昔からあるのは、カーディガンを肩にかけて袖を前で結ぶやつ。

 

あれ、なんなん。

洗濯もん乾いてなかったん?

 

私はどうもあのオシャレの仕方に抵抗がある。

だってカーディガンの袖シワシワになるし。

そもそもカッコイイかカッコよくないかで言ったら、個人的には断然カッコよくない。

もし自分の彼氏がデートにカーディガンを肩にかけてきたら?

私は迷わず「それ、いらんやろ。」って言うとおもう。

 

その肩掛けカーディガンよりも、もっと意味わからんのがある。

あれや。肩に上着かけとるやつや。

おまえはハンガーか?って言いたくなる。

絶対邪魔やん。

肩に上着かけてる人を観察してみたけど、大概がしょっちゅう肩から上着がずり落ちるのをチマチマ直してた。

 

そこまでして、肩にかけなダメ?

 

ちょうどたまたま入った服屋さんでストールを買おうと思いレジに持って行ったら、店員のお兄さんが革ジャンを肩かけしていた。

私はこのチャンスを逃すまいと、すかさずお兄さんに訊いてみることにした。

 

 

私「あのぉ、、素朴な質問してもいいですか?」

 

店員「はい(ニコっ)」

 

私「その、上着を肩にかけてて、邪魔にならないんですか?」

 

店員「邪魔ですよ」

 

私(なんてアッサリ。)

 

店員「いましがた裏で電話とっててですね、出てくるときに羽織ってきたんですよ。あはは」

 

私「そうなんですね」

 

店員「革ジャンだから暑いしですね」

 

私「そうですね」

 

店員「お待たせしました」

 

私「いやぁ、ファッションでかけてるのかと思ってですね。」

 

店員「あはは(苦笑)」

 

 

……とまぁ、訊いたわりにはそんなに興味ないし〝いいとも〟みたいになっちゃってゴメンナサイって感じだったんですが、「上着の肩掛けファッション、実は邪魔」ということが分かりました。

 

まぁ、オシャレはガマン。

って言いますからね。

 

そんな私は昔から「上着を着ない」オシャレが好きなんです。寒くてもあんまり上着を着たくないんです。だってせっかくのオシャレが見えないから。

 

ほら、オシャレはガマン。

って言いますからね。