私の中のワタシを忘れるために

錠剤は一粒ずつしか飲み込めない人が書くブログ。

今度から「好きなタイプは?」と訊かれたらこう言おうと思う

うちにはテレビがないため、たまにYouTubeで最近の番組のおもしろそうな部分だけを観たりするんですが。

 

先日観たのは「ダウンタウンなう」。

ダウンタウン坂上忍がゲストと一緒にひたすら飲みながら本音トークをするという番組。そのゲストが伊勢谷友介さんの回を観たんです。

 

トーク内容はざっくり言うと、伊勢谷さんのモテ事情についてや、なぜ結婚しないのか、など。

わたしは伊勢谷友介という人があまり好きではなかったのだけれど、この回のトークを観て結構共感をもてるところがあり、ちょっと好きになってしまいました。(ついでにいうと、坂上忍さんも好きになってしまいました。)

 

特に共感したのが「自分のめんどくさい部分」。

わたしも自他共に認めるめんどくさいやつでして。伊勢谷さんは、

【僕もすごい論理的でうるさいんですよ。理屈が合ってないのに伝わるわけないんだから、ちゃんと説明してくれってなっちゃって。でも、(相手の女性に)気持ちなんだもんって言われて・・・】

と言ってたけど、私はさらに加えて「何となく嫌だ。理由はないけど。」みたいな直感を優先する部分もあって、いやぁほんとごめんなさいだけどって感じで。

 

これは何でかというと、わたしは「論理的も感情も同じ」って思っているんですね。

論理的に説明できることは感情的にも説明できるし、逆もしかりだと。表現方法の違いだと思うんです。

 

昔付き合っていた人からもよく「おまえの言ってる事は言い訳がましい。なんも響いてこん。」とか言われたことがありましたが、私から言わせると「いや、こうなってる感情をいま言葉(あるいは図解して)にして説明してるだけなんだけど。」という感じで、つまり当時は相手は感情優位、わたしは思考優位になっていただけで、中身は一緒だったんだろうなと今なら思います。

 

トーク内で伊勢谷さんの【なんで人って生きてるんだ?とか一回は考えたことあるでしょ?】という問いかけに対して、峯岸みなみさんが「ないです」と答えてて。わたしも観ながら『えー?ないの??』と思ってしまったんですけど。

わたしもたまに「人生について」とか「自分の存在について」とか、そういうことを考えることがあって。当然ながら明確な答えは出ないのだけど、ただ何となくそれらについて考えてその時その時の答えをアウトプットして、誰かとあーでもないこーでもないって話をすることが好きなんです。

そんな内容に「俺はね〜、」とか「わたしは〜」って、自分の考えを言える人が好き。

 

だから、中身のない話とか単なる愚痴話とか建設的でない話をすることに対して「自分の時間を割いてまでそんな無駄な話を延々とする意味が分からない」という意識がある(だから世間話が出来ない)し、まぁ、ただ私が興味ないだけだから批判するつもりはないですが、たまにでも論理的な話ができない人とは少し距離を置いてしまう自分がいます。正直ね。

 

【だから、論理的に考えて、行動の原理を見つけて、それを形にするってことを繰り返すことが人生だと思ってるから・・・】

 

という伊勢谷さんの言葉にも共感で、自分と真逆の性質の人に対してはほんとに『ちょっと考えたら分かることなのに、なんで分からないの?』と考えさせられることも少なくなく(自分と同じと思っちゃいけないとはわかってはいますが。)、昔から「考えること」が癖というか、日常生活を送るための標準モードになってしまっているので、逆に『何も考えずに生きていけたら幸せなんだろうか』などと羨ましく思うこともあります。

 

こんな風に、感情を論理的に言葉にして説明しちゃうから、表面的には「冷たい人」と思われるんでしょうね。

表面クールな人って意外と中が熱い人が多い。それって、「いろいろ諦めてきた果ての」クールさなんじゃないかなぁなんてことを、ふと思いました。

 

そうそう。タイトルに戻りますね。

今まで好きなタイプってどんな人?って訊かれて、「白いパンツ(ズボンの方)を履かない人」って言ってきたんですが、これからは『自分の意志をちゃんと持っていて意見交換できる人』も付け足そう。

 

いやぁ〜、でもやっぱり『白いパンツを履かない人』は絶対かも。

 

 

断りにくいお誘いの断り方

最近ちょこちょこ「こんな時どうやって断ればいいんですかね?」ということを聞かれたことが続いたので、メモ程度にブログに残して置こうと思う。

 

私が話を聞いた「こんな時」とは主に異性からの食事やデートのお誘いで、尚且つ「その人を無下に断れない関係にある」場合。例えば職場で毎日顔を合わせる人や、その人と横つながりの人にお世話になっていて何かしら顔を立てなければならない場合など、恋人がいればそれを理由に断ることができるが、いないことを知られている時などである。

この先会う必要もない人なら冷たくあしらえばいいのだろうが、微妙な関係性にあるとそういうわけにはいかず、断ることもできずに自分の時間を苦痛な時間に当てなければいけないという人も少なくない。

そこで、「忙しい」や「架空の用事」を使い尽くした人のために参考になるか定かではないが、私がよく使う断り方をご紹介したい。

 

それがこちら。

『気が向いたらね』

 

色々話をしていて気づいたのだが、年が若い人になるにつれて、他者とのコミュニケーションにおいて「相手が今何を求めているか、何を求めていないか」を察知する能力が乏しく、自分の勢いだけで(パワーだけで)相手を強引に自分のペースに巻き込もうとする傾向があるように感じた。さらに、年が若いに加え、〝オラオラ系〟というか、男性性全開の雰囲気をもつ人にもそれは多いように感じる。

そのような人には〝忙しい〟とか〝今度ね〟などというとその言葉を鵜呑みにされることが多く、いつまでもだらだらと「いつご飯いきます?」と言われ続けるパターンになりかねない。

こっちからすればやんわり断っているつもりでも、そのような相手にとっては「いまは忙しいのか。だったらまた日をおいて誘おう。」という思考になるのである。やんわり断ることが優しいというのは大間違いで、また断る方も罪悪感が募るため、濁す断り方は双方のためにならない。

「気が向いたらね。」という言い方は主導権を自分に持ってくる言い方なるので、そこでグイグイ来られる相手のペースをダウンさせる効果がある。

そして、この「気が向いたらね」を同じ相手に使い続けると、「いつになったら気が向くんですか?」と言われることがあるかもしれない。

その時は怯まずにこう言いましょう。

「うーん。ずっと気が向かないかも。えへへ(笑)」と。チャンスです。

 

お誘いを断りたい時って、つまり「気が向かない」ということ。その行間には「あなたとは」とか「そもそもめんどくさい」とか「どうせ行っても楽しくないのわかってる」とか、色々あるかもしれないが、「気が向かない」という言い方は本音でもあり、誰のせいにしているわけでもなく、架空の用事を作らなくてもよく、相手を傷つけず、しかもそれ以上相手をこちらの領域に踏み込ませない、シンプルな断り方なのである。

そして、万が一気が向いたらその気持ちに従えばいいだけのことなのだ。

半永久保留、「気が向いたらね。」

そのセリフにハート以外のカワイイ絵文字でもつけときゃいいんですよ。

 

 

話をすることとおしゃべりの違いについて考えてみた

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今でこそ色々な人にブログを読んでもらう機会があり、「読みやすい、分かりやすい」とありがたい言葉を頂く事がありますが、実は「話をすること」に対してコンプレックスの塊だったんですね。
それに追い打ちをかけたのは昔、母親に言われた一言。『あんたの話分かりにくい、何がいいたいか分からん。』。

それが悔しくて、「話が上手な人はどんなふうにしてるんだろ?」と研究したわけです。

女性は基本「おしゃべり」は得意ですが「話をして伝える」は不得意な生き物です。それは何故かというと、感情が優位になるような性質ということ。そして『伝えたいこと』が自分でも把握できていないからなんですね、恐らく。

なので、「この人話長いし何が言いたいか分からんなぁ…」て人は自分のこと(思考や感情)をよく理解してない人が多いように思います。(性別問わず)

今わたしは相手に何を伝えたいのか。

これは言い訳じゃないか。

相手のせいにしてないか。

自分の気持ちや本音はどれか。

こう言ったことを考えながら言葉をそぎ落としていくと、本当に大事なことがシンプルに残ると思います。

「私はこう思います、こうしたいです、ここまでは出来ます。あなたはどうですか?」という、とてもシンプルなテンプレートなんですよね。これを一番はじめに言う。

それから、ああでもないこうでもないと相手の領域とすり合わせていって、お互いの真ん中を見つける、話を落としていく。

 

話のポイントを見失うと同じ会話をぐるぐる繰り返して疲れるけど、一つのポイントについてディベートしているとまったく疲れず、むしろその会話によってその場にいる人が活性化され、「あー楽しかった!すっきり!」という感じでちゃんと終わるような気がする。

 

こうして考えていると、何をするでも「自分主体」のスタイルが大事だなぁと思う。

自分を主体にすることで、関わる相手との健全な線引きができる。自分も相手も大事にすることができる。

分かりやすく相手に伝えるというのは、相手に対する思いやりでもあるわけです。

 

この流れで「言葉の要らない会話と言葉の必要性」について思うことがあるので、また…気が向いたら書きます。

 

 

 

 

長い間心に突き刺さったままの腐った釘の話(傷つくのが怖い人の話)

最近気づいたこと。

私は「嘘をつく人が嫌いだ」ということ。

「嘘」にも色々あるが、私が云うその「嘘」とは、主に『自身の本音をストレートに表現せずに、察して欲しいという気持ちからくる建前。』という言い方が一番近いだろうか。

まぁ、とにかく嘘つくやつは嫌いだ!という思考が私の中にあった。

心理学的に言えば定番の「投影」ということになるので、「、、、ということは、自分の中にも同じものがあるか、又は過去にあった出来事を繰り返している。もしくはそのどちらも、ということか、、、。何だろう。」と思ったのが今回のこの話の始まりである。さらに、なぜこんなめんどくさいようなことを考えたのかというと、自分のめんどくささに飽き飽きし、もう終わりにしたいと心の底から決意したからである。

 

妹とこの話をしていると、「あんたがいう嘘ってのは浮気されたことが関係してんじゃないの?」と言われた。

時は遡り私がハタチそこそこの年の頃。私は当時約2年程付き合っていた彼氏に振られた。しかも原因は向こうの浮気。つまり、私は捨てられたのだ。

自慢じゃないが、私は自分でも嫌になるくらい勘が鋭すぎる。

それまで何とも思わなかったのだが、ある日、ふとした瞬間に何かがぷつっと切れる感覚があった。おそらく彼の気持ちが此方から彼方へと移った瞬間だったのかもしれないし、ただ単純に私との見えない繋がりの糸のようなものが切れたのかもしれない。その時私は何も聞いてないし確かめもしてないのに「あ、終わったかも。」とだけ思った。

それから連絡をするが、一向に彼からの返信はなかった。

そして何日かたったある日、「ごめん。別れよう。」みたいなメールがきた。

何が原因だったかサッパリわからなかった私は納得できるはずもなく、その理由を知りたいのとまだ別れたくないということを言う為に電話をした。

簡単に言うと「友達みたいになっちゃって恋人に思えなくなったから」と言われた。

今の私から言わせてもらえれば「ハァ?何言ってんの?そっちの方がいいじゃん。」って感じなのだが、当時の私はまだ『恋愛』というものに不慣れで、「恋人みたいじゃないってなに?セックスが下手ってこと?」というトンチンカンなことしか浮かばなかった。

もちろん理由は全然違う所にあり(これが分かったのもごく最近のことなのだけど)、彼がいう「友達みたい」は、仕事終わりに迎えにいくとか、用事がなくても電話をかけてくるだとか、わがままいうとか、そういった女子的な要素が私に感じられなくなった。ということらしい。

現に私は電話が苦手(電話するなら会いたい)だし、当時まだ美容師の下っ端で営業後に練習などがあり、帰るのが夜中になるのがざらだったし、四人兄弟な為思いっきり長女気質で「自分のことは自分でする」スタンスを子供の頃から親に強いられていた。彼が求めていたのは「一般的な彼女」であり、素のままの私とは程遠いのである。

さらに私は恋愛経験が少なく、「一旦お付き合いしましょう」となれば別にわざわざ毎日電話する必要性もないというある種の相手に対する〝信頼感〟があったような気がする。なので、おそらく自分から彼に電話したことは用事以外一度もなかった。

今こうやって書きながら「男みたいなやつだな」と思ってしまった。

そりゃ当時の彼も冷めるわな。

このように、相手のことを一ミリも疑ってなかった私が、ある日突然彼の裏切りのため、体が裂けるかと思うくらいのショックを味わうことになった。

この人と結婚するんだろうな。まで思っていたのに、知らない間に女を作り、気持ちも全部逝ってしまった彼に対し、電話越しにみっともないくらい号泣し、悪いところは直すから考え直して欲しいとひたすら懇願したが、彼の答えは変わらなかった。

その時の私の感情の荒れ具合は相当だったと思う。今でもその光景ははっきり覚えている。そしておそらくその瞬間が、私の人生のトラウマを刻んだのだった。

 

その後、付き合う人付き合う人ほぼ全員に「浮気をされる」または「距離を置かれる(物理的にも)」という現象が続くようになった。

 

その彼と付き合っていた間、私は結構「そのままの自分」だったように思う。

しかし、

彼に見合う女になるには、そんな自分に嘘をつくしかない。

ありのままの自分でいると拒否されるのか。

、、、みたいな思考が潜在意識にインプットされたのだろう。今過去を振り返ると、過去に付き合った人たちに自分の素を出していたかと聞かれたらノーである。

だって私は「恋人には聞き分けのいい女」に成り下がってしまったのだから。

「聞き分けのいい女」の時は浮気され、

「どうしても心を開けない人」には物理的な距離が生じた。

 

あれから十数年たち、現人生の目の前にいる人に対してもあの時にインプットされたトラウマから生じる「繰り返す反応」に、私はもう心底嫌になったのだ。

もういいでしょう、解放されても。

目の前にいる人は関係ないのに、過去のフラッシュバックが現在の些細な行動と結びつけてしまう。関係を深めたいのに、腐った釘が邪魔して、なかなか信頼できないでいる。本当は近寄りたいのに、傷つくのが怖すぎて近寄れないでいる。

 

冒頭の話に戻る。

『自身の本音をストレートに表現せずに、察して欲しいという気持ちからくる建前。』というのはつまり私のことで。

本当の自分を見せたら、また、嫌われるんじゃないか。

みたいな思考がべっとりと張り付いていたのだ。

なので、ハタチそこそこから最近までの人生の大半を、傷つくのが怖いという理由で、「言葉で自分の気持ちを表現すること」ができなかった。主に恋愛の分野で。

結構ひん曲がった表現をしてたんだなぁ、そりゃ伝わらんわ。と思った。

 

最近とある本を読んで、その本に「自分中心の表現」をすることがいかに大切か。ということを知り、じゃあ私が当時浮気された時に、本当は相手に自分の〝どんな気持ち〟を伝えたかったんだろうか。その本に書いてあった例に当てはめながら考えてみた。

「自分中心の表現」とは、「感情の言語化+意志」さらに「矛盾する気持ちも言語化」するというもので、これを踏まえて当時付き合っていた浮気した彼氏、さらに今まで付き合った中で『浮気した彼氏全員』に捧げます。当時の私の気持ちになったつもりで、めちゃくちゃ恥ずかしいけど、手紙を書いたので読んでください。

 

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『浮気した元彼(たち)へ』

あなたが浮気していることを知って、正直体が引き裂かれるくらいのショックを受けました。とても傷つきました。

私と会ってない時に他の女と楽しんでいたり、その人のことを大事に扱っていたのかと思うと、すごくさみしい。

同時に、私があなたにしてあげれることがなかったのかなぁと思うと、それがそれで申し訳ない気持ちにもなりました。

このような気持ちがあったとしても、今でもあなたのことが好きだし、あなた自身を嫌いになった訳ではありません。

だけど、またこんなことがあったら、、、と思うと、つらいです。

信頼が崩れたり、お互いの関係に対して責任が持てないのなら、別れるという選択肢を選んだ方がいいのかなぁと 思っています。

正直、今すぐには 気持ちが整理できません。

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私の気持ちよ、成仏したまえ。

 

 

「嫌われるのがこわい人」のための自己主張レッスン

「嫌われるのがこわい人」のための自己主張レッスン

 

 

 

好き嫌いがはっきりしている話

とりあえずいま、アイフォンの充電が6パーしかないけど、思い立ったので書き始めます。

 

今日は仕事終わるのがおそかったので、近所にある遅くまで開いていて気軽に入れる〝や◯い軒〟に寄って晩御飯を済ませることにした。

 

ココは食券システムなので、店内に入る前にまず食券を買わないといけない。食券機が二台あるのだが私が入ると二台とも鈍臭そうな夫婦が陣取っていて、あぁでも無いこうでも無いとダラダラと選んでいた。

 

私は絶好調にお腹が空いていたし、一日中働いてきた疲れもピークに達していたため、「はよせぃや!!!」と叫びたいところだったが、一応大人なので、そこはグッとこらえた。

 

ひとりのババアは「こっちよりこっちの方が量があって安い」だの「チゲかぁ〜〜最近辛いのダメなのよねぇ〜〜」だのとぶつぶつ言いながらダラダラしていたので、「お前のチゲのこととか知らんわ!」と叫びたいところだったが、これでも大人なので、小さく舌打ちだけにしてみた。

 

腹が減ってるのだよ。

 

やっとこさひと組のババアたちが退いたので、私は最初から決めていたチーズハンバーグ定食の食券を買った。雑穀米に変更して。

 

やっとたべれるぜ〜〜と席についたとき、ふと先程のババアたちが何故あんなに「自分が食べたいものが分からないのか」を考えてみた。

 

わたしの場合、何か食べに行くときはあらかた「何の気分か」が決まっている。それは食べたいものの種類に限らず、もし誰かと行くならその人とのシチュエーションを含めた雰囲気を考えるし、ひとりなら、まず何を優先するか考えながらその中で食べたいものを決める。

 

例えば今日なら、

・夜9時以降

・なるべく人の手が作ったやつ

・米

・さっと食べて帰りたい

・猫のご飯も買わなきゃ

 

という要因があったので、トータルで出来る限りそれらの要因を満たせるところが〝やよい軒〟だった。

あ、◯にするの忘れた。もういいね。

 

私の場合、こうして優先順位を決めて行くと行くべき店が決まり、店が決まれば「あそこならアレを食べよう」が絞り出される。

そして大体席に座る頃には選ぶメニューは決まっている。

 

服を買うのも早い。

私が服を買おうとするときも、食べ物と同じで、「色は何系、サイズ感はこれ」とか、「色は黒で変な服」みたいな感じで大体のイメージを決めていく。

すると、不思議とイメージに近いもの、或いはピッタリなものがあり、店に入って最初からそれがそこにあるのを知っていたかのように華麗にサッとレジに持っていく。あまりに早すぎて店員さんに「はやっ!」っと突っ込まれそうなレベルである。

 

こういう買い物が何故出来るかというと、自分の体型のメリットデメリットを知っていて、似合う型似合わない型(例えば太って見える襟の形、とか。)を把握していて、それを基準にあとはその時の気分の色などをチョイスすればいいことを分かった上で買いに行くからだと、わたしは思っている。

だから、自分の服を自分で選べない人の気持ちがよく分からない。

(こだわりのない人と選べない人は違います)

 

これは人間に対してもあるかもしれない。

わたしは、好きな人種と興味の無い人種がはっきり分かれている。

好きな人種は、深みのある話が出来る、かつユーモアも感じられる人たちだ。

単に真面目な人間や薄っぺらい話しか出来ない人間にはあまり興味がわかない。

例え答えが出ないとしても、自分の言葉でディベートできる人は、人間的に興味がわく。そこにその人だけのオリジナリティが見え隠れするからだ。

 

好き嫌いがはっきりしている、とか言いながら、たまに「何でもいい」という時がある。

つまりその時一緒にいる相手に対していう場合なのだけれども、この「何でもいい」をもう少し詳しく説明すると、「あなたの選ぶものは私が選ぶものと似通っているので、それならば今はあなたが選ぶものを優先していいですよ。それはあなたが心地よくいれるであろうから、私もあなたにそうで在ってほしいんです。それに、たまには自分で選ぶよりもあなたが選ぶものによって、何か新たな発見や面白い展開になるかもしれないじゃないですか。いまはそんな気分です。」

の、『何でもいい』なんです。

 

 

 

 

愛でる話

むかし、ひょんな繋がりで出会ったいわゆる「視える人」に、言葉通り「視て」もらった記憶を、ふと思い出した。

 

そのとき言われた話はほとんど覚えてないけれど、ひとつだけ今でも覚えていることがある。

 

『あなたはもうちょっと自分を可愛がってあげて。愛でてあげなさいね。』

 

はて。「愛でる」とはなんぞや?

当時自分を擦り切れたボロ雑巾のように扱っていた私は、この「愛でる」という言葉も感覚も、まったく知らなかった。

 

「愛でる」とは、愛して大事にすること。と、ぐぐったら書いてあった。

愛の基準なんて人それぞれだとは思うけど、今の私にとって「愛」って、その対象の存在を生かしてあげることかなぁとフンワリ思っている。植物ならその植物が気持ちよくいれるように、動物や人でも同じく、これらに共通するのは「付かず離れずの距離感で大事に取り扱う」みたいな感じかなぁ。

 

先の話に戻る。

自分を愛でる、となると、自分という対象を愛して大事に取り扱う。となる。

すると、この「自分」を対象としてみるには「自分となにか」で見る必要がある。

ここでいう「なにか」とは、自分の中の核みたいなもんだと思うけど。

自分を、付かず離れずの距離で大事に取り扱う。

そうだね。

くっつきすぎたら傲慢になるし、離れすぎたらささくれになってしまう。まぁそんな感じだろうと思う。

 

今現在の自分を愛でれているかというと、自分で言うのもあれだけど、けっこう愛でてる。

昔ほど変に我慢をしたり、ボーダーライン超えるほど頑張ったり、気分のムラもなくなった。

自分が心地よくいれる人を選べるようになった。自分と他者の色々な線引きが出来るようになった。敏感すぎる自分の性質をプラスに使えるようになった。

ずっと普通。普通が一番。

 

自分を大事にしだすと、自分以外の人やモノの扱い方が変わってくる。

大切にされると心地よい事がわかるから。

そしてそれを相手にも味わってもらいたいから。

だから、「尊重する」の意味がわかる。

「あなたが心地よくいれる選択が出来るようにサポートするよ。」って感じ。

 

 

余談ですが。

愛でるついでに言うと、私は寒くなると布団とコタツをめっちゃ愛でます。

布団は一式モフモフ仕様にするから、布団も味わいたいし、コタツも味わい方に段階があるから、冬は時間配分が難しいんですよ。

 

 

以上、現場(布団)からお送りしました。

 

 

 

割れて、壊れたものの話

さぁて。今日で一週間経ったから、ブログに書きとめておこうと思う。

なにが一週間経ったのか。

それは、あるものが壊れてからだ。

壊れて、というか、割れて、と言った方がいいのかもしれない。

その、「割れて、壊れた」ものがまだ「割れて、壊れてなかった頃」の話をしたい。

 

ある日、私が住んでいるぼろアパートの隣に一人の女性が越してきた。歳は40代はじめ〜半ば頃だろうか。見た感じ冴えない雰囲気の、普通の女性だった。

 

それと同時に、その女性の部屋の玄関の外の横っちょの方に、わりとサイズ感のあるお雛様とお内裏様のワンペアがモヤモヤしたオーラを醸し出しながらジッと佇んでいた。

それだけでなく、そのワンペアの後ろには今にも走り出しそうに前足を跳ねあげた馬の置物と、馬よりも一回り大きいサイズのフクロウもいた。現実になるとそのサイズの対比は明らかにおかしい。フクロウが一番デカイんだから。

 

そいつらはみんな、おそらく陶器で出来ていて、よくおばあちゃんちの玄関とかにズラッと並んでいる、タンスにゴンと線香の匂いしかしなさそうな奴らだと思ってもらって構わないと思う。

 

もうすでに存在感からおかしいのだけれども、なぜそのような本来なら家の中にありそうな置物たちをわざわざ外に並べているのか。なぜお雛様セットと馬とフクロウなのか。色々なことが謎すぎる。

もしかして、魔除けなの?とも考えたけど、彼らにはどうにも魔をよけれそうな力があるとは思えない。

女性が越してきてもう半年以上はなると思うが、彼らのフォーメーションは崩れることはなかった。

 

だが。

一週間前、私が仕事から帰ってきて玄関に向かう途中、ふと視線を落とすと、破片がちらばっていた。

 

お雛様が粉々に割れてちらばっていたのだ。

 

私は思わず、

「あ……死んでる……。」と声に出してしまった。

 

それから一週間、女性の部屋は電気がついていたり車があったりしたので家にいたはずなのに、割れたお雛様は粉々に散らばったまま、今もなおその状態を保っている。

 

 

そして、割れて壊れたものはそれだけではない。

 

お雛様が壊れたのと同日くらいのある朝。

いつもの集金のオジさんが来たので玄関を開けると、オジさんは集金よりも先に隣を指差しながらこう言った。

「なんか、梅のビンが割れとんよね。すごい匂いがするよ。」と。

 

え?と言いながら外をみると、例の女性の部屋の玄関の横っちょに、ビニール袋に入った自家製梅酒のビンが割れ、そこら辺に梅が飛び散り、潰れていた。

 

えーー?なんで??

と、集金のオジさんと話して、まぁ帰ったら片付いてるやろうと私は勝手に思っていたが、その日の夜も次の日も、また次の日も、割れた梅のビンはその瞬間をキープしていた。

そして今日で約一週間くらい経つのだが、割れたビンもビニール袋に入ったまま、潰れた梅もその場を離れることもなく、いまだに状態を保っている。