私の中のワタシを忘れるために

錠剤は一粒ずつしか飲み込めない人が書くブログ。

他者の言葉を翻訳するためには何が必要なのか。

私は以前から、日本のアーティストが海外でライブをするときに自分たちの曲の歌詞を「その国仕様」にして披露することに、とても違和感を感じていた。

そうする意味としては恐らく、「自分たちの伝えたい思いを込めた歌詞を他国でもわかりやすく受け取ってもらえるように」という思いからなのだろうと、私は勝手に思っているのだが、本当に「思い」というものは歌詞を翻訳するだけで伝わるものなのか?と、疑問に思えて仕方がない。

 なぜなら、言葉には必ず「音」があり、言葉を発すると同時に音も振動として発している。それなのに、他国の言葉に変換してしまったら「音」も必然的に変わってしまう。

 

例えば英語圏のアーティストが日本に来てライブをするときに、もし日本語で彼らの歌を歌っていたらどうだろう。もしレディオヘッドが片言の日本語で「Let Down」を歌ったらどうなるか想像してもらいたい。

「Let Down」の出だしは「輸送船〜高速道路、線路〜」である。

心の底から自分の言葉で歌って欲しいと思う。

 

最近、私の好きなバンドの中のある一つのバンドが海外でライブをしていた。

おそらく彼らは自分たちの言葉で、自分たちのいつもの音で、その国でのライブをやったんだろうと思う。

するとツイッター内で、彼らと同行していたスタッフの元に「僕たちもその国でライブをしたいんですけど、歌詞を訳して歌った方がいいのか迷ってます」というニュアンスのツイートが寄せられたらしいのだが、その方(スタッフ)は「そんな小手先のこと考えるよりまず彼らのライブを見て出直して欲しい」とツイートしていた。そのツイートに添付されていた画像には、ぎゅうぎゅうのお客さんたち(その国の)を目の前にライブしている彼らの姿が映っていた。 

音楽ってダイレクトに感覚にアプローチするものだと思うし、一つの表現方法なのだから、「どう表現するか」の「どう(How)」の部分は手段でしかなく、表現するものにとってそれよりももっと重要なのは「何を伝えるか」なのじゃないのかな、と、私は思うのだ。

 

これは普段の人と人とのコミュニケーションの間にも言えることで、例えばある人が怒っているとしたら「怒り」はその人の内面を表現する方法でしかなく、その怒りによって「何を伝えたいのか?」というとこまで一歩踏み込むことが、相手を知るために必要になってくるのではないかと思う。

人はときに、伝えたいことと表現方法がちぐはぐなことが多いような気がする。

 

昨日「イミテーションゲーム」という映画を観ていて、その中でもあったのだけれど。

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職場内で同僚が何度も「僕たちは今からランチに行くよ」というのだが、言われた主人公の男にその言葉の真の意味が伝わらず(もしかしたら伝わっていて、わざとそういったのかもしれないけど)『で?』という返事をされ、ようやく「君も一緒に行かないか?」という。

『君はさっきから「ランチに行く」としか言ってない』と男は皮肉とも取れるような返事をするのだが、彼の気持ちはわからないでもない。

額面通りに受け取るとすれば彼にとって同僚は「自分のこれからの行動を表明しているだけ」にしか過ぎない。「だから何?」と思うのは当然である。

しかしこれが同僚側からすると、「それくらい言わなくてもわかるだろ」という言い分だろうと思う。

この映画のテーマの一つが「暗号」だからか、暗号に絡めた話がいくつか出てくる。男女間の誘い、誘われも「暗号」を通して通じ合う。「彼は最初見つめて来てたのに、そのあとはずっと無視している。私を誘ってくるわ。」というように、暗号のような行動を読み取る。

人が自然と使う「暗号」とは、「その人独自の癖」なんじゃないかと私は思った。『この人がこのような態度をするときは、実際はこういうとき』というような。

このような「暗号」の使い方は私たちの日常にも多く存在する。

 

海外アーティストの歌にしても、日常の暗号にしても、対象に興味を持つことが暗号を解くための鍵となるのかもしれない。

事実、私たちは興味のない次元の物事には理解を深めようとは、なかなか思わないのだから。

 


映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』予告編

だから結婚できないのかもしれない。

「私って合理主義ってやつだったんだ!」と、今更気付いて自覚しました。

 

まぁ、うすうす感じてはいたんですが、確かに一番無駄にしたくないものは「時間」です。

何よりも時間が大事。

おそらくお金と同じくらい大事。

時間をお金で買うなんて普通です。

頭の中では常に何かと何かを比較検討しているような気がします。

 

例えば夜ご飯を食べに行くにしても、

今日は何が食べたいのか、今いる所から一番近いとこはどこか、帰りの体力を考えたらどこがいいか、などなど、いくつかの要素を検討してバランスよく一番その時の気分に近いものを選びます。

 

誰かと会うにしても、自分の用事を織り交ぜることもあります。

時間と時間のあいだの時間もまた、大事なのです。

グーグルマップの予定時間に絶大的な信頼を置いてます。

なので、わたしが「あと◯分で着くよ」と言うときの「◯分」はほぼ正確で、あまり狂いがないのに、その時間に相手が準備できてなかったりすると、ちょっとイラッときたりもします。

 

「無駄足」がキライ。

 

料理をするにしても「どれから取り掛かって、どれを最後にしたら食べるときに温かく食べれるか?(温め直さなくていいように)」と組み立てる。

 

それなのに、何故だろう。

計画性がないと自分では思ってた。

計画しすぎて窮屈になるんじゃん。

でも、すべてに対してこうじゃないのよね。

行き当たりばったりな部分もある。

ダラッダラな部分もある。

 

おそらく合理主義な人が動かないときって、

「動く必要がない」っていう自分の中のモノサシに沿ってるときなんじゃないかなぁと思う。

でもそんな時なんか滅多にないんだよね。

だいたいが動いてるから。

動いてる時は「動く必要がある」ときで、それは必ずしも「動きたい」っていう自発的な本音ばかりじゃないのかもしれない。

「そこに自分というピースがハマった方がうまくいく」みたいな、自分の事を機械の部品みたいな見方でみているような気がする。

 

常に生産性は考えてる。と思う。

会話一つにしてもそう。何かを生みだすような生産性のある会話(討論など)は好ましいけど、ただの愚痴や自慢話や不幸話はよっぽど自分が好きな相手じゃないと聞けない。話を聞いてる側から、自分が腐れてカビが生えていくのがわかる。アンパンマンを呼びたくなる。

長電話も苦手。だって途中でトイレ行けないし用事が出来ないじゃないですか。

用事って、寝転がって本読むことも含まれるんですけど。

最初はいいけど、段々相手の話に興味が無くなってくるんですよ。そしたら正直あんまり話聞いてないんですけど、電話でそれっていうのも意味ないし、一応は「申し訳ないな」とも思っているんですよ。

 

多くの女性は(男性もたまにいるけど)何かにつけて時間を無駄にしたがる(お喋りや買い物や食事など)けど、そういう女性特有の非生産的な行動が、私はニガテだ。

彼女たちは自分の時間を惜しむくせに、自らの行動が非生産的だということに気づいていない。

 

しかし、決して合理主義が良いという訳ではなく、合理主義にももちろんデメリットはある。

生産性を気にするあまりに、非情になってしまう。

「冷たい」だの「あんたに私の気持ちが分かるわけがない」だのと言われることも、珍しくない。

そして『わかりません。分かる訳がありません。』などと言って火に油を投げ込んでしまう。

そういった部分は、ちょっと反省が必要でもある。感情を抑え続ければ、自分の感情がどこにあるのか麻痺して見つからなくなってしまうのだ。

 

しかしそんなクールさを自分でも愛しいと思うのだよ。

 

 

インスタのキラキラカップルを見てわかったこと。

先日、ふとインスタの「あなたにオススメ」的な写真たちをつらつらっと見ていると、カップルのキス写真があって。

正直いうと(むっ。)(いいな。)(でもキモい)という少々複雑な心境になったんですが、その人のアカウントを覗いてみると、ほとんど「イチャイチャやってる自分たち」の写真なんですよね。しかもカメラの視点が自撮り風ではなく、ちゃんと三脚立てて撮ってる。

「ゲェーー」とか思いながらも、トータルで見ると一貫した世界観があって、写真も綺麗で「作品」になってる。

ちょっとゆうたら「テラハ」みたいな感じ。

おしゃれな人たちはおしゃれな場所に行っておしゃれなご飯食べておしゃれに公開する。そんな陽の気をプンプンさせながら彼女たちは毎度毎度インスタにおしゃれ写真を投げ込む。

『◯◯くんと3ヶ月記念♡ まだ3ヶ月なのに写真が1000枚超えてる♡』

『昨日も一昨日も会ってたのにもぉ会いたい♡』

『この写真好きぃっ!!この写真好きぃっ!!!この写真好きぃっー!!!♡』

知るかボケェェェ!!!!……と、彼女らの文面には♡で埋め尽くされていてキラキラしすぎて、私はとてもじゃないが直視できない。(太陽は直接見ちゃダメと教えてもらったよね)

 

そして彼女らをフォローしている人たちを見ると、普通の主婦や、普通の学生や、普通の女子たちである。

彼女らはひたすら歌舞伎の掛け声のように「素敵!」だの「羨ましい!」だのとキラキラカップルを鬼のようにもてはやす。

キラキラカップルたちの思うツボである。

 

私は自分の中の最新の集計プログラムを起動し、このキラキラ女子と、それを見ている普通の主婦や普通の学生や普通の女子たちと、どこが違うのかじっくり観察して見て、一つわかったことがある。

どこが違うのか?

日陰に潜み、じめじめとコタツで寝転んで漫画を読む私たちに何が足りないのか。

 

それは、

 

眉毛である。

 

眉毛の、太さである。

 

 

ブスどもよ、キラキラしたくば海苔眉にしろ。

 

 

「愛を本物にする選択肢」とはどのようなものなのか。

わたしたちはしばしば、自分と関わりを持つ相手との間において、「未来の保証があるかどうかによって、今この関係を続けるかやめるかを決める」という選択のしかたをしてしまがちである。

 

よく聞くのが、「この先、私と結婚する気がないなら、もう別れよう」という女性の言葉。

そしてなぜ女性と書いたかというと、やはり1番の理由は「女性には体の期限がある」ということだろう。

 

子供を設けたい人にとっては、医学的に言われる「女としての有効期限」に焦りを感じてしまう。

ただ、いつもちょっとだけ疑問に思うのが、

「子供が欲しい。旦那はいらない」という人がわりと多いことと、その人達はそうは言っても「相手は誰でもいいわけではない」ということ。

 

そんな!矛盾だらけやんか!!

と、私は思ってしまうのだ。

わからんでもないのだけど。

 

でもね。

「私と結婚する気がないなら別れよう」

と言うとき、その相手との関わりの中に「心」はあったのだろうか?と疑問が湧いてしまう。

 

「とんこつラーメンには煮卵ついてないんだぁ。じゃ、味噌ラーメンにする。いま煮卵食べたいから。」

みたいに、そんな簡単に未来の確証の中に「結婚」がないだけで、今まで付き合った相手を切り捨てられるの!?などと、考えてしまう。

 

初めから「結婚」がしたいなら、「結婚したい人」がいるところに行くのが手っ取り早いし、もし出会いがあったのなら、最初っから「私は後々結婚したいです」ということをプレゼンしといた方がいい。

それをしないから、「無駄な時間を過ごした」なんて愚痴る羽目になるのだ。

 

なぜ今日こんなことをツラツラと書いているかというと、以前買って読んだ石井ゆかりさんの著書「愛する力。」という本をたまたま手にとり開くと、こんなことが書いてあったから。

 

『「未来にうまくいくなら、今それを選ぶ意味もある」と、私たちは考えます。

でも、もしかすると、愛を本物にする選択肢は、その選び方では、見えてこないのではないか、と思うのです。』(「愛する力。」より)

 

未来に確証がないから別れる。という決断が頭の中にあるとき、そこにあったのは「愛」ではなかったのかもしれないなぁ。と、思ってしまうのである。

私はこれを、「責任転嫁」と捉えてしまう。

 

結果はどうなるか分からないけど、今のところ私はこうしたい。それでだめなら仕方ない。でもそうしたい間はそうする。

と腹から思えるとき、人はブレがないのだ。

 

未来を作るのは今。と、よく耳にする。

それってこういうことなんじゃないかなぁと、私はおもう。

 

 

 

愛する力。 ~続 愛する人に。~

愛する力。 ~続 愛する人に。~

 

 

 

 

今ここでふかふかの毛布にくるまっている幸福感は、私以外誰も知らない。

先日、久々『アメリ』を観た。

『アメリ』に出てくる人物たちの「好きなこと」は、豆の袋に手を入れることだったり、捨てられた他人の証明写真を集めたりと、一風変わっていてユニークである。

彼らは世間から見れば「変わっている」のかもしれないが、彼ら自身は単純に「自分の好きなこと」に対してただ忠実なだけなのだ。

 

自分の中にある「好き」は、どのように生まれるのだろう。そしてどこにあったり、どう取り扱えばいいのだろう。

ある人にとってはこれらを知ることは簡単でも、また別のある人にとってはとても難しいことだったりする。

 

そして、「好き」や「きらい」や「興味ない」の階層もたくさんあるため、これらを取り扱うときはじゅうぶんに気をつけないといけない。

 

いや、気をつけなきゃいけないのは、これらを自分の外に表現するときだけなのかもしれない。

 

以前こんな話を聞いたことがある。

 

とある夫婦がいました。

ある日の夕食に出ていたブロッコリーを旦那が残しているのをみて、妻は「彼はブロッコリーが嫌いなんだな」と思い、次からは旦那の皿にブロッコリーを入れるのをやめました。

月日が経ち、病で倒れた旦那が危篤状態になり、妻が見守る中、旦那はこう言いました。

『もっとブロッコリーを食べたかったなぁ』

妻は驚いて言いました。

「え?あなた、嫌いじゃなかったの?残してたじゃない!」

すると旦那はこう言いました。

『あぁ、あの時はお腹いっぱいで食べれなかっただけだったんだよ』

 

たしかこんな話だったような気がする。

ブロッコリーを死に際に思い出すようなことなんてないかもしれないけれど、このブロッコリーの部分はどれに変えてもいい。よくある話だと思う。

 

自分の本音を表に出さないために、義理母から要らない漬物をもらう羽目になったり、何でも出来ると思われてキャパオーバーになるまで頼られたり、自分の欲しい頼られかたじゃなかったり、いろいろとツライ思いをする羽目になる。

自分を偽ることの代償は、とても大きい。

 

「幸せになれる」と信じて飛び込んだ結婚も、いざやってみると自分の望んでいたものとちょっと違う、というような話も多い。

その人たちは恐らく、自分のほしい「幸せの形」にハマらなかったのだろう。

 

自分のほしいものを知るためには、自分に聞くのが一番である。

 

最近たまにお客様にも聞いてみたのだが、ある人は「仕事をしているときは結構幸せだし楽しいです」と言っていた。

私から見ても(といっても、店でお会いするほんの一時間ほどの積み重ねだが。)その方はとても楽しんで仕事をしている様子が感じられ、結果も出していて明確な目標に向かって取り組む姿勢はいつもイキイキしている。

 

逆に私のことを聞かれたのだが、とっさに「ゴロゴロすることですかねぇ」と面白くも何ともないことを答えてしまった。

 

しかし実際、今コタツでゴロゴロしながらコタツ布団のフワフワ感に包まれているこの感じは、私にとってはとても幸せなのである。

コインランドリーで乾かしたふかふかのタオルで身体を拭く瞬間も幸せだし、猫のカラダに顔を埋めてフガフガするのも、1日をリセットされた朝の職場に入った瞬間も、冬の空気の匂いも、たまに会った恋人がピタっとくっついてくる瞬間も、実験しながら作った料理が美味しくできた瞬間も、他にもたくさんあるけど、そういった日常の些細なカケラがわたしを喜ばせてくれることを、私は知っている。

 

大きな節目もそりゃぁ大事だけど、幸せってそういう所には隠れていないものです。

 

小さいころ砂場でさがした「きれいな丸い石の粒」みたいに、実はその辺に散らばっているのかもしれません。

 

 

極上の幸せをお届けするコタツ布団はこちら。

 

 

 

夢の話にイチローを出すのはもうダサいってば。

自己啓発本なんか読むと、たいていの人が「大きな夢を叶えたひとり」の例え話にイチローをあげている。

 

その場面(イチローの話)に遭遇すると、私は「チッ」と舌打ちをしたくなってしまう。

エジソンとかアインシュタインならまだ分かる。彼らの「凄さ」は、わかる。

だけど、イチローの凄さはまったくわからない。

「何本安打」(すいません、雰囲気で言ってます)とか言われても、まったく意味がわからないし、まず、脳が受けつける気がない。

私は野球にまったく興味がないんだよ。

そしてイチローにもまったく興味がわかないし、そそられもしない。

だから、イチローWikiや野球についてググろうと思ったこともない。

 

なんで多くの人がイチローを取り上げるんだろう。心の底から不思議でならない。

 

まず、イチローを目指すために子供に野球させる、とかも、ちょっと違うと思ってる。

 

そもそも、「目指す」って言ってる時点で成長が止まってる。

イチローを目指すってことは、(例えばなれたとして)イチローか、もしくはイチロー未満にしかなれないってことだと思うんですよね。

 

以前の記事にも書いたけど。

憧れは違うって話。

憧れてるうちは「自分はそこには届かない」って思ってるってこと。

 

すると、さっきインスタグラムを覗いてたら、アディダスの広告にこんな事が書いてあった。

 

「オリジナルとは、目指すものではなく、到達点である。」(@adidastokyo)

 

そう!!それそれー!!!

私が言いたかったのはそーゆうこと。

 

私は、なれないものは無いと思ってるし、なれないものは「なりたくないもの」だと思ってる。

だから、「目指す」とか「憧れ」とかっていう言葉が、私の中には希薄なのである。

 

 

 

大人について考えてみた

大人ってなんだろう。

仕事についたら?成人したら?お酒を飲めたら?高い腕時計をつけたら?ブラックコーヒーを飲めたら?高いスーツをオーダーメイドしたら?自分の家を持ったら?

 

こうなったらこうだ。という言い回しで済む物事の、なんと脆くて儚いことか。

だけど現実、人間はそういった道標みたいなものがないとなかなか生きづらいものでもある。

 

そもそも、大人だからとか子供だからとかに囚われること自体、意味があるのか分からない。

なぜなら人それぞれ「大人」に対する価値観は違うから。

それに、「大人」というのは「状態」だから、自分で分かるものではないし決めるものでもない。

誰かがある人の振る舞いをみて、「あぁ、あの人は大人だなぁ」と見るのである。

 

では、どんな人を見たときに「大人だなぁ」と思うのか。

 

ある人に「あなたが思う大人って何ですか?」と質問してみたところ、『何気ない日常の中のふとした気づかい、とかですかね。』という答えが返ってきた。

 

私も自分なりに考えてみたところ、そんな感じの答えが浮かび上がった。

思いやり、とか、謙虚さ、とか。

思いやりと一言で言ってもアバウトだけど、つまりはその瞬間の相手の気持ちに寄り添ってあげれること。なのかな。

 そのためには相手がいまどんな気持ちを味わっているか想像出来ないといけないし、それが想像出来るってことは自分も似たような経験をした事があるってことになる。

すると、大人って、沢山色んなことを経験しているってことになる。

ただ、手当たり次第何でも経験すればいいってもんでもないだろう。それにひとつ付け加えるなら、「逃げずに自分の中で噛み砕いて消化した」ってとこか。

そうする事で、「経験」は「体験」に変わる。

 

この記事を書き始めたときは、今日が成人式(明日が成人の日?)なんて事は忘れていたのだけれど。

私は映画『マイインターン』を観て、「大人って何なんだろう?と考えてみた次第でございます。

 

新成人の皆様、おめでとうございます。