私の中のワタシを忘れるために

錠剤は一粒ずつしか飲み込めない人が書くブログ。

サンドイッチには野菜を入れたくないという話から思い出した話

お客さんとサンドイッチの話になり、

私はサンドイッチに野菜を入れるのが嫌だ。という話をした。

野菜が嫌いなワケではない。

パンと野菜を一緒にしたくないのだ。

許されるのはレタスのみ。レタスなら許す。

卵、ベーコン、ツナ、みたいな動物脂肪的なもの〝だけ〟がいい。

BLTなんてもってのほか。Tを抜いてから食べるよ。

 

もう何年も前の話になるけれど、

わたしは一時期「肉は食べません。」という生活をやってみた。

肉は食べてないけど魚は食べていた。

同じ動物なのに、なぜか魚は自分と遠い存在だという

何だかわけのわからない感覚があったからだ。

 

ベジタリアンの何がいいからという明確な理由はなかったのだけど、

何となく健康的で、

何となく経済的で、

何となく自分が何か崇高な存在にちょっとばかり近くなれたような

そんな「何となく」の感覚だけでそうしていたような気がする。

実のところ、あまりよく覚えていない。

 

最初はいいと思ってやっていたことが、

いつからか、何となく窮屈になっていった。

変にルールに縛られているように感じてきた。

「いいと思ってやっていた」ことが間違いだったのだ。

 

そうすることが心地良いから、そうしていたのではなく

いいと思ってそうするというのは 本心からでたものではないということになる。

 

わたしたちはこれと同じようなことを、

自分の大事な人たちにもしてしまいがちである。

 

親の価値観をそのまま植えつけられ、

自分で考える力や考える時間、「考える」ということさえ

させてもらえなかった人は

大人になって自分で考えて答えを出さなければいけない瞬間に

なかなかそう出来ない場合が多いように思う。

 

親にとっては子に対し、

失敗するかもしれないけど自分で全てをさせるというのは

自立心や自信を養うこと、

「あなたにはパワーがあるのですよ」という感覚を

体感を持って教えることに通ずるのではないかと思う。

 

事実、

過干渉で育てられた私は、精神だけが早くに大人になってしまい

自立しなければいけない場面で依存してきた。

 

ずいぶんと回り道をしたもんだなぁと思うけれど、

これはこれで必要なルートだったんだろう。

 

本当の私は、未開の地を自分の手で切り開く方が好きなんだと思う。

誰かが作った道は安全すぎて面白くないから。