私の中のワタシを忘れるために

錠剤は一粒ずつしか飲み込めない人が書くブログ。

『与えよ、さらば与えられん』と言ったヒゲもじゃのおっさんの言葉は、実に正しいと実感した話

とあるカップルの悩み相談を聞いた時の話。

 

彼女の不満は『彼氏が休日の朝はゆっくり寝て、出かけるなら昼から夜にかけて出かけたいという。私は朝から遠出したりしたいのに。例えば月2回ずつ譲るとかしてほしい。』という。そう言う彼女はバツイチ子持ち、まだ子供が小さいため、まぁ分からんでもない言い分である。

 

一方彼氏は『俺は休みはゆっくり寝ていたい。月2回とか無理。』という。そんな彼もバツイチで子供もいたので、結婚歴がない人よりは彼女の状況や環境から〝子供アリの彼女〟の気持ちには寄り添えそうにみえる。

 

表面だけみて彼らの言い分をどっちが良いとか悪いとかで話をすれば、結局のところお互いさまで、シンプルな解決策を言うならば「嫌なら別れたら?」という話になる。

しかしそれでは根本的な問題は解決せず、お互いまた他の誰かと付き合っても、その相手に同じ状況を見てしまう。

何故なら、何か問題が起こったように見えたとき、その問題を作り出しているのは他の誰でもない、自分の心や意識だから。どんなに相手が悪いように見えたとしても、相手をそのように〝見ている〟自分に原因があるのだ。

 

先のカップルの彼氏のスパッと歩み寄らない言い分を聞いた時、私は彼にこう言った。

「今そのような態度で接していると聞いたとき、わたしはホントに相手のこと好きなの?と思ってしまったよ。何でかと言うと、私にとって相手を大事にするとか愛するというのは、相手が喜ぶことをしてあげたいと思ってるから。人それぞれ大事にされ方は違うからね。」

 

すると彼はわたしのボディブローが効いたのか、う〜〜ん……と苦い顔をしながら小さく唸っていた。

 

すると彼はこう言った。

「俺は早起きして出かけたりは出来ないけど、彼女が望んだモノを買ってあげたり食事に連れて行ったりしているんですよ。」

 

それに対してわたしはこう言った。

「それを何と言うか知ってる?『補償行為』っていうんですよ?」と。

彼の見えない分身が腹を押さえながら膝をついたように見えた。

 

だが、彼をそうさせてしまう彼女にももちろん責任はあり、実際彼女が彼に要望する「欲しいもの」は1番ではなく、2番目に欲しいものだったのだ。

人は大抵、本当に欲しいものに対しては臆病なのである。

 

その時の会話では私からも解決したようには見られず、「まぁ、お互いさまなのよ。」と流していた。

そして後日、ふと彼女に聞いてみた。

 

「彼氏から全面拒否されてるようにみえるなら、あなたも彼を同じように扱っている事があるはずなんだけど。それは何?」と。

 

すると彼女はこう答えた。

「あるよ、彼からしたら私に全面拒否されてること。夜にデート出来ないこと、二人で旅行とか行けないこと、元旦那とつながってること(養育費関連の事のみで連絡できる状態にある事)。」

つまり、これらは彼女にとっては彼が望んでも与えてあげれない項目になるのだ。彼が『早起きして一緒に出かける』を彼女に与えてあげれないように。

 

続けてわたしは彼女にこう聞いてみた。

「じゃあ、それらを彼に与えてあげれないとき、どんな感じがする?気持ちとか。」

 

すると彼女はこう答えた。

「罪悪感でいっぱいになる。」と。

 

「じゃあ、彼が早起きしてあげれないとき、今あなたが感じたように、罪悪感でいっぱいなのかもしれないね? その罪悪感でいっぱいのときに、何を与えられたら心が軽くなるかな?」

と聞くと、彼女はそこでようやく気づいたようだ。

 

彼女が本当に欲しかったものは、美味しい食事やモノなどではなく、『俺が望むものを与えてもらえなくても愛してるよ。』という(いま現状の自分が出来る事をそのまま認められているという)「ゆるし」だったのである。

 

自分が自分にダメ出しをしているから、同じことをしている彼をゆるせてなかったのだ。

 

「欲しいものがあるならば、まずは与えよ」という言葉があるが、この言葉の意味が改めてわたしの中に沁みた出来事だったように思う。

 

人は、自分が持っているものしか、与えられない。

もっと欲しいと思ったなら。

その時はまず先に、自分が持っているものを自分でしっかりと確認しなければいけない。

 

罪悪感を持っているなら、罪悪感というフィルターを通したものしか、与えられないのである。

 

実に皮肉で、ユーモアのある仕組みである。