知らないだけ
昔付き合ってた人にデートの約束をドタキャンをされた時に、「楽しみがのびるだけやんか、いいやん。」って軽く言われたことがあって。
そのときになんか無性に腹立った記憶があるし、「なんなん?その言い方。」ってキレた記憶もある。
なぜこの時腹立たしさを覚えたのかを考えてみれば、恐らく〝約束のその日を心待ちにしていた気持ちを無下に扱われた〟といったとこだろうか。謝るでもなく、自分の都合を肯定するかのような言い方に。
子供みたいって言われてもいいし思われてもいいけど、この時の腹立たしさと絶望感を知っているから、わたしは小さい子にその場しのぎの嘘はつきたくないなっておもう。
オトナってすぐ嘘つくじゃないですか。
自分の都合で「あしたね、こんどね、」って言う。
だからあんまし「社交辞令」ってやつも使いたくない。
気が向かないだろうものに対しての私なりの社交辞令は、「気が向いたらね。」って言う。
ほんとのことだから。笑
「終わりよければすべてよし」って言葉もニガテだな。
その間のいろいろなものは?!?
って思ってしまう。
そして多くの人が云う「終わりよければ〜」は、誤解して使ってるような気がする。
だから、通じる人を見極めなくちゃならない。
プロセスを大切にするってことは、過程を見ることだよね。
例えば絵画だったら筆がどういう角度で、どこから入ったとかゆうことも見たりする。
食べ物だったら、材料の原産地とかを知ることで、結果の状態にどれほどの人が関わってるか、どんな想いが込められてるか、浮き彫りになる。
最近よく思うのが、
やっぱり人生って経験なんだよなってこと。
経験っていうと「わざわざ何かを体験すること」みたいなニュアンスに捉えがちだけど、そうじゃなくて。
美味しいコーヒーを沢山飲めば、状況に合わせて選ぶ事が出来る。
ゆっくり極上の味を楽しみたい時、急いでるけどソコソコ美味しいもの飲みたい時、リラックスして会話を楽しみながら飲みたいとき、静かにそっとしておいてほしい時、例えばこんなふうに色んな気分に合わせて飲むコーヒーを変える事が出来る。
これは知ってるから出来ること。
知ってるから選べること。
人が怒ったとき、感情と出来事をくっつけてしまうのは、それしか方法を知らないから。
自分の感じ方はいくらでも選べることを、知らないから。
プロセスをみるようになると、色んな過程を想像することが出来るようになる。
人を許せるってのは、ココなんじゃないかな?とおもう。
人の愛し方に正しいも間違いもないのだろうけど、最近聞いた「(3歳の子供に)子供の好きなようにさせてる。だから怒らない。子供の世界に口出ししない。」という親は、無責任以外のなにものでもない。
だけど、この親も結局は知らないだけなのだろうね、と、いまの私ならそう思える。