「私はコミュ症です」というラベルは、「今いる場所は地球です」というくらいざっくりアバウトなもの。
わたくし、自分で「コミュ症」だと思ってたんですが、どうやらそうではなかったみたいです。「コミュ症」という言葉って「今いる場所は地球です」ってくらいざっくりとしたものだと思います。
初対面でもすぐに打ち解けるひともいれば、ちょっと無理な人、けっこう無理な人、と、いろんなレベルの話せる度合いがあって、自分の中で「これはなんでだろう?」とずっと疑問に思ってたんですね。
学生の頃は「おとなしい人」でとおってたし、就職しても上司からは同じように「おとなしい子、会話が苦手な人」というようなことを言われたこともあります。
でも、大人になって昔の同級生に会ったりSNSなどで話したりすると、だいたい言われるのが「雰囲気かわったね、そんな人だったっけ?」みたいなことを言われます。
髪の色も派手だし、着る服も独特だったり、SNSではけっこうアップするし、自分でもむかしの自分とはちがうかもなぁと思います。
どうしてこのような感じになっているのでしょう。
ふと、わたしは気づきました。
「みんなに同じように(平等に)接しないといけない」という勝手なルールみたいなものを、いつのまにか自分に課していたのかも、と。
わたしが『一対一だといいけど二人以上になると無言になる、疲れる』のは、その場にいる二人が盛り上がった時にもう一人が会話に入れないことを気にしてしまうから。そして逆にあぶれる立場になった時に、自分の世界に閉じこもってしまうことがダメなこと(相手に悪いこと)だと思い込んでいたから。仲間外れにされてる感や、それを認めたくないというのもあったのかもしれません。
私は、どんなに有名でみんなが「すごい人」といっても、わたしがその人をすごいと感じる部分がないと「すごい人」と思わないし、同様に「おもしろい人」、「偉い人」、などという世間一般の評価に合わせることは、まず無いです。なぜなら、『自分がどう感じるか』が自分にとっては一番正しいことだから。
わたしがこれまで「コミュ症」だとおもっていたものは、単なる好き嫌いがハッキリしているだけのことと、興味がなければ見向きもしないこと。そして、そんな自分を悟られないように隠そうとしていただけなのかもしれません。
『あ、この人(人間的に)すきだな。』と感じればよく話したり、そのひとの意見をきいてみたり、その人のまわりに落ちているその人に関する小石を拾って、『へぇ~、この人はこんなひとなんだ~』みたいに、わたしにとっての人物像をつくっていくんです。
それが嫌いだったり興味がなければ、小石は一旦拾っても捨てたり、そもそも拾わなかったり気づかなかったり。
なんで『みんなと同じように接しないといけない』なんてルールを課してたんだろ。
はぶられた経験が、自分でもおもわないほどの傷になってたからかなぁ。
それなら何となく納得できるような気がします。
これからは「好き、嫌い、興味ない」を全面的に出していこう、そして自分にも他人にもそれを許そうと思います。
ちなみに、宇多田ヒカルのすごさがいまいち解らないんですよね。。。