空気は読みません。何故ならめんどくさいから。
先日、とある方と「空気を読むこと」について話していた。
まず、「空気を読む」の定義は何なのだろう?どこからどこまでが読めていて、どこからどこまでが読めていないのだろう。私は少し疑問に思った。
「空気を読む」と似たような意味合いで「顔色を伺う」というのがある。
私は自慢じゃないが、子供の頃から親の顔色を伺い、友達や恋人の顔色を伺いながら今まで生きていた。こうやって自分のことを客観的に見れるのは、今、そうすることをやめているから分かるのである。
しかし、やめたらやめたで今度は「KY」によってしまう。
元々顔色を伺っていたので、あとで振り返ったときに「あ、あの時あぁやって言ったけど、悪かったかな」とかいうふうに、一応気にしてはみるものの、すぐに「ま、いっか。」となるのである。
とにかくめんどくさいのが苦手なので、人とのコミュニケーションも回りくどい言い方をされると話がよく分からなくなってきて、「だからなに?結局何が言いたいの?」と言いそうになるのを必死でこらえている。
だからといって「言わなくてもわかる」のとはちょっと違うし、やっぱり伝えたいことは言葉にしないとダメだなぁとも思う。
誰が最初に「KY」なんて言い出したんだろう。
空気を読んでほしい人は、自分が何も言わなくても察知しろよって思いがあるんでしょう?
そんなのただの傲慢じゃないか。
居てほしいなら居てほしいと、帰ってほしいなら自分の時間を使いたいと、手伝ってほしいなら手伝ってほしいと、口が付いてるならそれを使えばいいじゃないか。
「空気読めてないよね」って言う人(言う側)ほど、自分自身と他者の境界線があいまいのような気がする。