私の中のワタシを忘れるために

錠剤は一粒ずつしか飲み込めない人が書くブログ。

ドリルを買う人はドリルが欲しいわけじゃない。その人が本当に欲しいのは「穴」である。

先日、冷蔵庫から出したばかりの四角いバターを、専用じゃないナイフで切ろうとした。人差し指をナイフの背に添えてゆっくりと力を入れた。

「ミシッ ミシミシッ」

鳴るはずのない場所からはっきりと音がした。

もう一週間ほどになるけれど、指、痛い。

 

「便利なものがあるよ。」

と、バターを網目状に一気にカットできちゃう、しかもケースにそのまま入れておけるやつを教えてもらった。

世の中には便利なものが、あるんですねぇ。

 

曙産業 カットできちゃうバターケース ST-3005

曙産業 カットできちゃうバターケース ST-3005

 

 

私たちは時に、自分が本当に欲しいものがわからないことがある。

Aさんにとって「愛」とは、目に見えるもの、形としてわかるもの、例えば「お金を稼いでくること」「何かをしてあげること」だったりする。それは総じて『物質的な世界』のことで、Aさんにとって「愛」を与えれてるか受け取れているかを測るモノサシは『 物質的世界』になる。つまり、Aさんがかけているメガネは「物質」(カタチとして分かるもの)しか見えない。

Bさんにとって「愛」とは、目には見えないもの、形に囚われないもの、例えば「信頼の上に成り立つ自由」だったりする。それは総じて『精神的世界』のことで、Bさんにとって「愛」を与えれているか受け取れているかを測るモノサシは『精神的世界』になる。つまり、Bさんがかけているメガネは「目に見えないもの」も見える。

 

Aさんは「お金を稼ぐこと」を相手に与える(差し出す)ことが自分にとっての愛の行動と信じているため、Bさんと一緒に過ごす時間も惜しんでとにかく仕事を頑張る。Bさんのためにと信じて。例えば出張先の父親がたまに子供にポンと大きなモノをプレゼントするかのように。

Bさんは「目に見えないけど感じるもの」に愛の重きを置いている。モノを手にすることよりも、自分と相手の間に交流して生まれる〝状態〟によって愛を受け取る。そのため、相手にも自分が受け取って嬉しいものを差し出そうとする。空間や時間、そして信頼に基づく自由を。

双方の「愛に対する意味合い」が一致していなければ、一方はいらないと言い、もう一方は受け取ってもらえないと言うだろう。表現方法は違えど、お互いの根本的な部分は同じなのだ。「いらないのにどんどんくる(重たいと感じる)」「受け取って欲しいのに反応がない(自分の価値を感じられない)」それらに共通して言えるのは『愛じゃない』ということになる。

 

これらは一例に過ぎず、いろんな表現の仕方があるんだろうと思う。人が「愛されていない」と嘆く時、自分の存在価値を自分で認めれていないことが多いように感じる。そして自分が「本当に求めるもの」がわかっていない。

このような時の自分自身に対する正しい質問の仕方は、

自分は結局のところ、何を求めているのだろうか?

絶対にコレ(この人、ここ)じゃないとダメな理由は?

といった感じだろうか。

 

相手の言葉に含む意味を知るためには、まずは相手の言語を知るところから始めなければいけない。

好きになった人が外国の人だったら、まずその人と意思疎通したくて相手の国の言葉を理解しようと努力するでしょう。それと一緒なんだろうと思う。

 

ところで、バターをカットするやつを買ったのかって?

買いませんよ。

私が本当に欲しいのは「任しとけ!」って言いながら硬いバターを切ってくれる「手」なんだから。

 

どの手にしようかな?