私の中のワタシを忘れるために

錠剤は一粒ずつしか飲み込めない人が書くブログ。

お前そんなだからマザーテレサに「帰れ」って言われるんだよ

 フェイスブックに「で?」ボタンとかあったらいいのに。なんてことをずっと前から思ってて、途中一旦SNS離脱したりして、帰ってきたら〝いいね〟ボタンが表情豊かになってたんだけど、「いや、そうじゃないやん?」って思ったりもして。

実際「で?」ボタンがあったらどうなるんだろ。私なんか押されまくられるかもしれない。でも他人がどう思うかなんて自由だし、ある意味アプローチ方法を考えれるきっかけにはなるんじゃないかなとか思う。

 

SNS(特にフェイスブックやインスタ)には、たまに「あんま見たくなかったな」て写真とかが流れてきたりする。私がそう感じた投稿は、動物や子供虐待の記事、原発に関する記事、政治色が強く一方的な批判ばかりの記事、など。

おそらく投稿したりシェアしてる本人は「これ以上こんなことが起こりませんように」という想いがあってそうしてるんだろうと、私は勝手に思っている。いわゆる「見せしめ」的な。

だけど、人間の脳(潜在意識)というのは善悪を判断できないため、考えたこと、思い浮かべた映像、話す言葉、など、それらを〝そのままの状態〟で取り込むようにできている。つまり、表現の仕方でとらえ方や影響というのは大きく違ってくるってこと。

例えば「戦争反対」と表現するよりも「平和な街づくりをしましょう」と表現したほうが、言葉のニュアンスやその先に見えるイメージが穏やかではないかな?「今日も嫌なことがない1日になりますように」と、「楽しく笑顔いっぱいの1日になりますように」とでは結果同じようなことを言っているのだけど、表現の仕方で与える影響や受け取るニュアンスは随分変わってくるんじゃないかと私は思う。

 

これは個人的な解釈だけど、ツイッターはそういう配慮はしなくていいと思う。なぜかというと、ツイッターは比較的「自分の好みの趣味嗜好が似てる人、何かの参考にしたい人」をフォローする傾向があるから。嫌だったらフォロー外したりブロックすることも、割と敷居が低いように感じる。

私はキャラ分けなんて面倒くさいこと向いてないから、どこ見てもだいたい同じだと思うが、使い分けしてる人にとってはツイッターは割と素の自分多め、その他は猫かぶりみたいな感じが多いように思う。

ピンタレストなんかは興味収集以外の何物でもないから、グロいもんも流れてると思います。最近はあまり見てないけど。

 

はっきり言っちゃおう。

先に挙げた私があんま見たくなかったなって記事をあげちゃう人の心中。ぺりぺりっと薄皮をむいたら、おそらく「自分はこういうことに関心があるんです。すごいでしょ、偉いでしょ、いい人でしょ」に見られたい願望。そしてもっと皮をむいてみると、ものすんごい不安を抱えてるんじゃないかなと思う。自分が不安を握りしめてるから、そんな内容に興味が行くし、そんなこと自分はしませんって表現しちゃう。隠しておきたい時、人は何らかの表現で表に出しちゃうんだよね。しかも、ついうっかり。

私は自分がこれらをやってたから余計に分かる。恥ずかしい話だけど。

他人の目を気にしていたし、被害者になってたこともあるし、物知りって思われたかったこともある。

そうじゃないと他人とうまく距離を保てなかったんだろうね。多分ね。

 

今や私のフェイスブックはひたすらこのブログを広めたいだけ(みんなに読んでほしい)のシェア、そしてたまにインスタのシェア(内容は音楽や映画や作ったご飯など)で溢れている。

ブログのシェアに「で?」なんてついたらきっと凹むかもしれないので、やっぱり「で?」ボタンなんてものはやめておきましょうね。