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私の中のワタシを忘れるために

錠剤は一粒ずつしか飲み込めない人が書くブログ。

繊細さを剥き出しにすれば人は寄り付かないんだけどそれが自分の色なんだよね

わたしは子供の頃から、気心を許せる人以外の人からは大体「おとなしい子」として認識されていた。なので大人になって同級生なんかに会うと「あれ?あの人ってあんな感じだったっけ?」みたいなことを言われるのにはもう慣れている。

そんな「おとなしい子」の背中にあるチャックを開いてみれば、中からは「世間を冷静に観察して、今ここでこの人に私のこのことについて説明しても絶対わかってくれないだろうし、説明を正確にする時間もない。面倒くさい。やめておこう。」とか、「その話には全く興味ないんだよねー。」みたいに考えている人が出てきたりするのである。

興味のあるものとないものへの食いつき方もギャップがありすぎるし、基本あまり真剣に話を聞いてなかったりする。こういった感じはおそらく、「おとなしい子と言われる人あるある」として共通することもあるんじゃないかと思う。

 

自分では意識してなかったのだが、昔から文章を書くことがわりと好きで、仲の良い友達と手紙や交換日記なども結構していたし、今もこうしてブログというカタチで思いをライムに乗せて書き綴っている。

こうした文章を書くという行為が得意なのは、おそらく自分の持ち時間を何も気にせず自由に使って書くことができる点が、一番大きいんじゃないかと思う。

自分の内側に在るものに一番近い表現を選ぶ時間がたっぷりある。これは私にとってとても重要なことである。

ふとどこからともなく「ぽわん」と、少しかっこよく言えば〝フレーズ〟が浮かび、一旦それを脇に置いて、そこにまつわるエピソードを短編で頭の中で大まかに編集する。先にラストを決める時もあれば、なんとなく散文的にざっと書き始める場合もある。

LINEはチャットなので〝即興ライヴ〟だし、メールはブログと同じで〝レコーディング〟なのだ。

 

これでも接客業ということもあって、一応〝知らない人と会話をする努力〟はしてきたつもりなのだが、ごく稀に文章というツールも使わずに、初対面から〝即興ライヴ〟的なことができる人がいる。「会話をする努力」が全くいらないのだ。

あれはなんなんだろうと考えてみたら、それらに共通する人たちはおそらく、どこにいてもお面をつけてない人たちなんじゃないかという、私なりの結論に至った。

 

私はその人たちの普段の日常を知らないのでなんとも言えないのだけど、なんとなく、〝よそ行きのお面〟がほぼいらない人たちのような気がした。

たくさんのお面をつけてみんなに愛されようと努力する、承認欲求の塊のようないまの世の中で、お面を外したままの自分を愛せる人は、他のどんな人でもきっと愛せるのだろう。

なぜなら、愛するというのは〝好きになる〟こととはまた別の、〝認める〟とか〝ただ見る〟というようなニュアンスだと、わたしは思うから。

 

そうそう。映画「FRANK(フランク)」を観たんです。

いつかわたしが〝アルバム〟を出すことがあったら。

みなさん、宜しくお願いしますね。

 

FRANK フランク [DVD]

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