「優しい」は誰が決めるのか
好きな人などの話になり、「どんな人がタイプですか?」という質問に「優しい人」とあがる事は少なくない。
子供が生まれれば、「優しい人になって欲しい」という想いを託す親は多いだろう。
ならば、「優しい人」ってどんな人なのだろう。
以前こんな話を聞いたことがある。
ある男性が、普段は仕事をしていて、家に帰ったら嫁が不機嫌なのを気にして家事を手伝っている。会社のイベントで必要なお金を嫁にもらわず、自分の小遣いから出している。と。
それを、「自分はコレだけしてやってる」という言い方をしていた。
立場を入れ替えても、よくある話だとおもう。
男性は、心から家事を手伝いたかったわけではなく、仕方なくしていたのだ。
この話を聞いて、「優しいね」と思う人もいれば、そうじゃない人もいるだろう。
だが、男性はその話ぶりから、自分で「俺は優しいから」と口には出さないにしても言っているのと同じじゃないか、とわたしは思った。
案の定、その自己満的な優しさは嫁に伝わるワケでもなく、ひたすら自分の身を切り売りするループにハマっているようだった。
何をもってして「優しさ」と定義するのか。
わたしは、「我を忘れて奉仕できること」そして、「相手のためにならない奉仕はしないこと」が、限りなく答えに近い〝優しさ〟なんじゃないかと考えた。
先の例でいえば、男性は家事をしたかったワケではなく、単に嫁の機嫌を取りたかっただけなのだ。ならば、自分が考える優しさではなく、「嫁が求めるもの」を与えなければならないし、本当に自分のせいで不機嫌なのか、又そうだとしたら何故そうなったのかを、積もりに積もる前の段階で処理しなくてはいけない。
相手が何を求めているのか。それは世間一般の答えの中にはなく、目の前にいる人をじっくりと見ないとわからないはずだ。
分からなければ聞けばいいし、女の面倒くさいコミュニケーションを回避するためには「俺は言葉でちゃんと言ってくれないと分からない」と、素直に言うしかない。
わたしも以前は言葉通り、「何かをしてあげる」のが優しさだと勘違いしていた時期があった。そのおかげで、コミュニケーションは上手くいくわけもなく、逆効果に終わった。
人によっては「何もしないこと」を与えられる事が嬉しい場合もある。同じ人でも、それが欲しい時とそうじゃない時がある。
それらを考えると、「優しさ」とは与える側がこうと決めるものではなく、受け取る側が〝感じる〟ものなんじゃないかなと、わたしは思った。
言いにくいことを言ってくれる人は、きっと、「嫌われてもいいや」という覚悟を大なり小なり持っている。
しかし、そこを突破しないと得られないものは、近づきたい身近な存在になるにつれて大きくなるはずだ。
わたしがもし自分の子供を育てるような事があるなら、こう言おうとおもう。
「何者にもなるな」と。