私の中のワタシを忘れるために

錠剤は一粒ずつしか飲み込めない人が書くブログ。

「優しい」は誰が決めるのか

好きな人などの話になり、「どんな人がタイプですか?」という質問に「優しい人」とあがる事は少なくない。

子供が生まれれば、「優しい人になって欲しい」という想いを託す親は多いだろう。

 

ならば、「優しい人」ってどんな人なのだろう。

 

 

以前こんな話を聞いたことがある。

ある男性が、普段は仕事をしていて、家に帰ったら嫁が不機嫌なのを気にして家事を手伝っている。会社のイベントで必要なお金を嫁にもらわず、自分の小遣いから出している。と。

それを、「自分はコレだけしてやってる」という言い方をしていた。

立場を入れ替えても、よくある話だとおもう。

 

男性は、心から家事を手伝いたかったわけではなく、仕方なくしていたのだ。

 

この話を聞いて、「優しいね」と思う人もいれば、そうじゃない人もいるだろう。

だが、男性はその話ぶりから、自分で「俺は優しいから」と口には出さないにしても言っているのと同じじゃないか、とわたしは思った。

 

案の定、その自己満的な優しさは嫁に伝わるワケでもなく、ひたすら自分の身を切り売りするループにハマっているようだった。

 

 

何をもってして「優しさ」と定義するのか。

 

わたしは、「我を忘れて奉仕できること」そして、「相手のためにならない奉仕はしないこと」が、限りなく答えに近い〝優しさ〟なんじゃないかと考えた。

 

先の例でいえば、男性は家事をしたかったワケではなく、単に嫁の機嫌を取りたかっただけなのだ。ならば、自分が考える優しさではなく、「嫁が求めるもの」を与えなければならないし、本当に自分のせいで不機嫌なのか、又そうだとしたら何故そうなったのかを、積もりに積もる前の段階で処理しなくてはいけない。

 

相手が何を求めているのか。それは世間一般の答えの中にはなく、目の前にいる人をじっくりと見ないとわからないはずだ。

分からなければ聞けばいいし、女の面倒くさいコミュニケーションを回避するためには「俺は言葉でちゃんと言ってくれないと分からない」と、素直に言うしかない。

 

わたしも以前は言葉通り、「何かをしてあげる」のが優しさだと勘違いしていた時期があった。そのおかげで、コミュニケーションは上手くいくわけもなく、逆効果に終わった。

 

人によっては「何もしないこと」を与えられる事が嬉しい場合もある。同じ人でも、それが欲しい時とそうじゃない時がある。

 

それらを考えると、「優しさ」とは与える側がこうと決めるものではなく、受け取る側が〝感じる〟ものなんじゃないかなと、わたしは思った。

 

言いにくいことを言ってくれる人は、きっと、「嫌われてもいいや」という覚悟を大なり小なり持っている。

しかし、そこを突破しないと得られないものは、近づきたい身近な存在になるにつれて大きくなるはずだ。

 

 

わたしがもし自分の子供を育てるような事があるなら、こう言おうとおもう。

 

「何者にもなるな」と。