私の中のワタシを忘れるために

錠剤は一粒ずつしか飲み込めない人が書くブログ。

信じるということについて考えてみた

「信じる」という言葉を、私たちは日頃から結構普通に使っていると思う。

しかしこの「信じる」という言葉の意味合いは、人それぞれ違っているように私は感じる。

 

例えば、まぁよく使われるのが男女間において。

相手がずっと変わらずにいてくれる、ずっと自分のそばに居てくれる、自分のことだけを考えてくれる。そういったことを「信じて」いた場合、相手が思っていた行動と別のことをすると「裏切られた」となる。

しかしこの場合の「信じる」の意味合いをよく観察してみると、ここには「期待」が含まれていることがわかる。

信じることと期待することは別物だ。

 

信じることと期待することの違い

「信じる」は広辞苑によると、『そのことを本当だと思う。疑わずに、そうだと思い込む」とある。

極端な例をあげると、私たちは毎日朝が来て夜が来ることを信じている。酸素が尽きないことを信じている。蛇口をひねれば水が出ることを信じている(料金を払っていればね)。「信じる」のレベルはこのくらいの〝なんだ、そんなの当たり前じゃないか〟というようなものだと、私は解釈している。

「期待する」とは、『あることが実現するだろうと望みをかけて待ち受けること。当てにして心待ちにすること。とあった。

このことから、「信じる」には確定しているようなニュアンスがあり、「期待」にはまだどうなるかわからないといったニュアンスが感じられる。

そして「信じる」にはちょっとした魔法じみたようなものが含まれていると、私は思う。

 

信仰について

以前何かの本の中で「信仰」についての例えの話があった。

ある村で日照りが続き、村人は雨が降るように祈り続けるが一向に降る気配がない。困り果てた人々は村の牧師の元へ行き、「私たちは信仰を持って祈っているのに、なかなか雨が降らない。このまま雨が降らなければ、私たちはどうすればいいか」と相談すると、牧師はこう答えた。

「あなたたちは本当に信仰を持って祈っているのですか?」と。

『もちろんです!!』と村人たちは答えた。

すると牧師はこういった。

「ならば、なぜあなたたちは今誰一人として傘を持っていないのですか?」と。

 

雨が降ると「知っている」なら、傘を持つだろう。その行動の中に、人間の「信じる」という意味が隠れている。

この村人たちは、実のところ「信じて」いたのではなく「期待して」いたことになる。

 

わたしの体験からわかったこと

わたしの場合、先にあげたように、昔は異性に対して「信じて」いたつもりで勝手に「期待」し、当然のことながら裏切られ、身も心もボロ雑巾のようになり、槇原敬之の言葉をちょいと拝借するならば「もう恋なんてしない」と言いまくっていた。

そうなるとどうしても「信じる」の内容がどうしてもマイナスに働いてしまう。「どうせまた、ああなってそうなってこうなるんでしょ。私知ってる。もうやだ。怖い。」という風に、過去に体験したことを元に先に進もうとするため、ポジティブなイメージが全然わからなくなってしまう。

 

ある時、「やっぱもう嫌だ。『もう恋なんてしない』なんて言わないよ絶対」と神に誓いたくなったので、ここはグーグル先生の出番です。聞いてみました。

するとグーグル先生は私にこう言い放った。

「あんた、自分を信じてないっしょ?」

私は一瞬どういうことかわからずにグーグル先生に詰め寄った。

「先生、自分を信じるってどういうことですか?」

するとグーグル先生はこのようなことを語り出した。

「まぁ、あれだね。自分を信じてる人ってのは自信があるってことだよね。結局あんたさ、傷つきたくないだけでしょ。都合のいい時だけ他人の判断に任せてさ、自分で責任を取りたくないんだよ。失敗したら人のせいにすればいいしね。でさぁ、守りに入ってるっしょ?ガチガチじゃん。それじゃ〜全然自由じゃないよね。そんなんじゃ攻めれないよ〜。そりゃさ、生きてれば辛いことだってあるよぉ。あんたさぁ、その辛いことをどうにか全部避けようとしてるんだよ〜。そんなの絶対無理に決まってんじゃ〜ん。」

 

私は〝ぐぅぅぅっっ〟と唸ることしかできなかった。

そうだ。私は今まで信じてなかったんだ。他人も、自分のことも。

自分自身の心の声も聞こえていたはずなのに、無視していた。

 

そして、「信じる」というのは〝言い聞かせる〟ことでもない。

このことが腑に落ちた時から、わたしは言葉にして「信じてる」と言ってる人は心の中では不安があるんだな、ということがわかった。

なぜなら、朝が来ることを「信じてる」なんて言わないように、心底何か、あるいは誰かを信じている時は、わざわざ口に出して云う必要はないからだ。

「信じる」という行為は自分の中で行って、初めて対象に伝わるものかなと思った。

ちゃんと自分のことを信じることが出来ていれば、おそらく「信じてる」とも言わないだろうし、仮に対象が自分の予想外の動きをしたとしても「裏切られた」とは思わないだろう。

 

信じるという感覚

私たちはたまに「根拠のない自信」を感じる時がある。

「何故かわからないけど、そうなる」というものだが、それがおそらく「信じている」時の感覚なのだろうと、わたしは思った。

 

とは言っても、自分や他人を信じすぎると「過信」になるし、自信がありすぎて謙虚さが無くなれば傲慢さが見え隠れし出す。

 

ようは真ん中に居ろってことだね、グーグル先生。。。

 

f:id:saihate306:20160530205950j:plain

久々「サルチネス」読み返して泣いちゃった。。。