映画『フローズンタイム』にみる、エロと芸術と愛
わたしの生活空間には時計を置いていない。ケータイに付いてるのは仕方ないが、それは自分と外の世界をつなぐための言葉というか、そんな感じで使っている。
与えられた24時間というのは、目安でしかない。昼と夜の区切りなんてものは自分の頭の中の概念でしかない。
人間の脳によれば、自分次第では時間を自由に扱えるので、「限られている」と意識すればその通りになるのは当然だろうと、わたしは思っている。
過去を繰り返すのが好きな人は、メリーゴーランドのようにぐるぐるとひたすら回っているし、降りて次に行きたい人はそうすることを選び、新しい時間と空間に飛び込んでいく人もいる。私たちはみんな、元々自由なのだから。
愛って何だろう?
この疑問はこの世に生を受けた私達全員に向けての、生きて死ぬまでの最大のテーマなのかもしれない。
美しいものを見出すとき、私たちの時間はすぐそこに在り、可もなく不可もなく、静かに留まっている。
人によって、或いは時と場合や場所によって、個人個人の時間の感覚は違ってくる。
大好きな人と楽しむ時間は、その空間だけを切り取り、宇宙に自分たちしか居ないような感覚に陥ることさえある。
映画『フローズンタイム』は、画家を目指す主人公ベンが恋人と別れた後、そのショックから不眠症を引き起こし、それが原因なのか自分が見ている世界の時間を止めれるようになる。
寝れない夜の時間をどうにもできず、スーパーの夜勤を始め、時間を潰す。
時間を止めれるようになったベンが何をするかというと、女風呂を覗くわけでもなく、おっぱいを触るわけでもなく(見るけど)、ひたすら観察し、そして絵を描く。ただそれだけである。
芸術に携わる人はこの映画でいうところの〝時間を止める〟という感覚が分かるかと思う。例えば絵を描く時、その描こうとする対象物は自分の中で動くと同時に静止する。
映画の見せ方はけっこうコミカルに描かれていて、くだらない面白さが全体に散りばめてあるので笑える(シュールな面白さ)けど、ベンの視点に入り込むことで、私たちもリアルな疑問に向き合わされてしまう。
スピリチュアルな世界で流行ってしまった言葉、「いまここ」というものをシュールに、かつアートに表現したかんじかなぁと、個人的には感じた。
多くの人が、愛や幸せはとても素晴らしいもので、どこかキラキラした、ちょっとやそっとじゃ簡単に手に入らないもの。と思いがちだろう。
この映画はそんな理想や思いが膨らんだものを、一旦フラットに戻してくれるキッカケになるかもしれない。