伝えるということについて考えてみた
以前、どこかの誰かがこんなことを言っていた。
「思っていることは何らかの形で表現しないと、それは存在していないことと同じだ。」
わたしは思った。「なるほどね。」
話は6年前に遡る。
当時高校時代から仲良くしていた友人と、ほんの些細な事でケンカのような雰囲気になってしまった。
心の声とは真逆な思いやりのカケラもない言葉を並べたて、お互いを傷つけ、私達はその日を境に連絡を絶った。
人は自分以外の人に、自分をわかってほしいと願う生き物だ。けれど、残念ながら「知ってもらうこと」しか出来ない。
彼女は彼女なりの「正しさ」を基準に、彼女の正しさを基準とした「視点」から、彼女自身の価値観を押し付けてきたように私は捉え、おそらく私はそれに応戦するように、自分自身の小さな狭い価値観を必死に守るために、壊されまいと心を閉じてしまった。
連絡先も消してしまい、わたしはそれまで親友と思っていた彼女との仲を、絶縁状態にしてしまった。
最初は何とも思わなかったが、最近になってふと「何してるかな」と彼女の顔が思い浮かんだ。
あれから現在までの間、わたしにも色々な事があり、他人や自分のことを当時よりはほんの少しだけ考える余裕が出来たようにおもう。
もし明日死ぬならどうする?
と、自分自身に問いかけた。
「もう、いいんじゃないか?嫌われてるかもしれないけど、まぁ、その時はその時だな。」
そのあとすぐに共通の友人に連絡先を聞き出し、6年ぶりに連絡をした。
返事はほぼ期待してなかったけど、思いの外ポジティブな返事が返ってきた。それをキッカケに、また以前のようにたまに食事に行ったり最近の悩みなどを相談するようになった。
「明日がくる保証はない。」
この言葉も今ではそのへんにゴロゴロと転がっているけれど、近頃の自然災害や事故の多さを目の当たりにすると、この言葉は生きているもの全ての基本スペックの一つとなっていることが身にしみる。
私たちは、いつか死ぬことを知ってはいるが、「自分だけはちがう」ように毎日を過ごしてしまう。
亡くなった人を目の前にし、もっと優しくしていれば、もっと一緒に過ごしていれば、もっともっともっと、、、と後悔の念ばかりを積み上げてしまう。
差しだそうとしたものを引っ込めてしまうとき、本当のところ、それはだれのために引っ込めてしまったのだろうか。