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私の中のワタシを忘れるために

錠剤は一粒ずつしか飲み込めない人が書くブログ。

人と8時間以上一緒に過ごすことができないことについて考えてみた

家族とか友人とか、仲がいいとか、そういうの全く関係なく、わたしは他者と長時間を共に過ごすことが難しい。

8時間という数字がどこから来たのかというと、一度一番気楽に過ごせる親友(だと私が勝手に思っているだけ)と一緒にいるときに、自分がどのくらいまでは何も考えずに一緒に居れるかを観察してみた。

「気楽に居れる人」というのは、喋りたい、今は喋りたくない、ぼーっとしたい、〇〇をしたい、〇〇に行きたい、などの自然な欲求が噛み合う又は譲り合えても苦にならない、というのが満たされる割合が多ければ多いほどそれにあたると私は考えている。そして、これがだんだんと自然と満たされなくなり縛られ〝我慢〟の域に達すると、いまそこにある自分と相手(誰であろうと)の世界から「離れたい」となる。それが、「もうそろそろ帰ろうか、」ということになる。

この間の最高記録が8時間だった。

このことにまだ気付いてない頃、何度か友達と二人で旅行に行ったこともあるのだけれど、部屋も一緒だったためそりゃあもう自分のペースを乱されるのは当然のことで、友達はチェックアウトの時間よりもずいぶん早めに出たがり、私はチェックアウトの時間ギリギリまでホテルでゆっくりしたいタイプで、「旅の疲れというのはこういうところのストレスからくるのでは?」と今更ながら思う。

車の中での沈黙が苦手、という人がたまにいる。いや、結構いるのかもしれない。私はその沈黙を押し通す方なのでそういった気持ちをよく理解できないのだけど、ある人になぜ嫌なのか尋ねてみると「なんか喋ってないと悪いような気がして。。。」と教えてくれた。

へぇ!と思った。車に乗っているとき、好きなように喋り、好きなように話を聞き、好きなように外を眺めたり、眠たくなったら寝てしまうわたしは、そんなことは一度も考えたことがなかった。むしろ沈黙もけっこう好きだったりするのに。単純にお腹が空いて無駄なエネルギーを使いたくないが為に自然と無口になる場合もある。

沈黙を気にして無理しておしゃべりされると、その「気を使う」という行為が裏目に出る。

「気を使う」という行為は日本人においては美徳とされているけど、この美徳というものは私にとってはとても厄介だよなーと常々思う。

誰かと一緒に行動を共にするなら少々の我慢は必要でしょ!と言われるかもしれないし、そんなことは重々承知なんだけど、違うんだよ、違うの。一緒にいたとしても好きにすればいいと思う。私の場合、それができる人とは長く続く気がする。

単なるわがままなのかなぁとも思うけど、それならみんなもわがまましたらいいのにね。かえってそっちの方が調和取れそうなんだけど。