私の中のワタシを忘れるために

錠剤は一粒ずつしか飲み込めない人が書くブログ。

もう結構スピ本とか自己啓発本を読んできたんだけど、もうちょっと腑に落ちないとこがあるんだよなと思ったら

「なにが起こっても、『絶対幸せ』でいる法」ロバート シャインフェルド著

 

人間は意識していようとなかろうと、生きてる限りでは幸せというものを求める特殊な生き物なんだろうなぁとつくづく思う。この世に生まれた最初は幸せなんて求めていないし、ただ生きることに精一杯だったはずなのに、成長するにしたがっていつの間にか「今、わたし、幸せじゃない。」という感覚や感情が芽生え始め、存在するだけで活き活きとしていたわたしたちはまず、「あの子にあってわたしには無い」みたいなことを考えはじめる。持ち物や友達や褒められること・・・などから。

生まれ落ちた家庭環境、テレビやネットの情報媒体、学校や会社での人間関係、たとえ家族という一番身近なコミュニティがあったとしても、社会というものは子供からお年寄りまで年齢関係なく〝自分という個人を視点(支点)とした社会〟だとわたしは思う。

子供時代を思い出してみてほしい。

いくら子供とはいえ、その子を軸とした社会の見え方や成り立ちがあるわけで、でも大人は自分の小さな価値観という箱の中から自分の持っているものを取り出し、さもみんな感じ方は同じかのようにブレーキをかけさせようとする。

「今君の眼の前にあるそれ(経験)は、私のこれ(経験)と似てるだろ、ほら、この時わたしは危険な目にあったんだ。だからやめなさい。」といった具合に。

ママさんたちから最近の子供達の話を聞くと、わりと他人を気にせず(わたしから見ていい意味で)自分勝手、得意なものもあるがそれが少し一風変わっていてお友達と馴染めているのかが心配。という。結構そんな子が多いように感じる。

みんな一緒、グループ行動、人と違うとなんか言われる、みたいな時代で育ってきたママさんから見たら心配になるのは仕方ないことなのかもしれない。だけど、時代の流れは昔に比べて確実に早くなってきている。昔はああだったこうだったという言葉は異国の言葉のように通じないことを、もういい加減認めてもらった方が楽だとは思うけど、まぁそう簡単にはいかないのが現実。(ママさんだけじゃないけどね)

 

「幸せってなに?」と聞かれた時に、「幸せとはこういうものですよ」なんて定義はないことはわかりきったことで、その理由は、人が幸せ〜と思わず自然と口に出して言っちゃう時のことを思い浮かべたらなんとなくわかると思うけど、「はぁー、幸せだなぁ〜」っていう〝言葉〟がでてくる源泉はどこだろう。口?いやそうじゃなくて。心?じゃあ心の場所ってどこだろう? 

私の場合は、なんかブワッとカラダの中のどこかしらに動くものがジンワリあるようなないような感じがして、ジーンと小さいけど何か動かされる波のような感覚があって、頭なんて一度も使わずに、自然と「あー、幸せ!」とでてくる。

それがいつどんな時で誰といるときかとか、どこにいる時だとか、何を使ったとか、そのようなモノたちは一つの補助的な役割でしかなく、それが揃っていないと絶対ダメとかもなく、「ブワッとある感覚」はいつどのように発動するかは私にもわからない。

しかし、その感覚を感じそうな方向を見ることはできる。その〝感覚を感じそうな方向を見る〟という行動が、所謂一般的にあらゆるスピリチュアルとか自己啓発系とかで言われる言葉にすればシンプルなやつ、「好きなことをしろ」なんじゃないかと思う。

(好きなことをするのと好き勝手するのとはまたワケが全然違うのだが、その話はここではしない。)

その、好きなことをしろ(経験)そしたら真の幸福とは何かが見えてくるよ!ってやつを分解して分解して書かれてある本です。

その話(幸せって結局何?)をするにはもーっとむかしむかしの話からしなくちゃならんのじゃよ。。。みたいなニュアンスかも。

 

 

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