私の中のワタシを忘れるために

錠剤は一粒ずつしか飲み込めない人が書くブログ。

サンドイッチには野菜を入れたくないという話から思い出した話

お客さんとサンドイッチの話になり、

私はサンドイッチに野菜を入れるのが嫌だ。という話をした。

野菜が嫌いなワケではない。

パンと野菜を一緒にしたくないのだ。

許されるのはレタスのみ。レタスなら許す。

卵、ベーコン、ツナ、みたいな動物脂肪的なもの〝だけ〟がいい。

BLTなんてもってのほか。Tを抜いてから食べるよ。

 

もう何年も前の話になるけれど、

わたしは一時期「肉は食べません。」という生活をやってみた。

肉は食べてないけど魚は食べていた。

同じ動物なのに、なぜか魚は自分と遠い存在だという

何だかわけのわからない感覚があったからだ。

 

ベジタリアンの何がいいからという明確な理由はなかったのだけど、

何となく健康的で、

何となく経済的で、

何となく自分が何か崇高な存在にちょっとばかり近くなれたような

そんな「何となく」の感覚だけでそうしていたような気がする。

実のところ、あまりよく覚えていない。

 

最初はいいと思ってやっていたことが、

いつからか、何となく窮屈になっていった。

変にルールに縛られているように感じてきた。

「いいと思ってやっていた」ことが間違いだったのだ。

 

そうすることが心地良いから、そうしていたのではなく

いいと思ってそうするというのは 本心からでたものではないということになる。

 

わたしたちはこれと同じようなことを、

自分の大事な人たちにもしてしまいがちである。

 

親の価値観をそのまま植えつけられ、

自分で考える力や考える時間、「考える」ということさえ

させてもらえなかった人は

大人になって自分で考えて答えを出さなければいけない瞬間に

なかなかそう出来ない場合が多いように思う。

 

親にとっては子に対し、

失敗するかもしれないけど自分で全てをさせるというのは

自立心や自信を養うこと、

「あなたにはパワーがあるのですよ」という感覚を

体感を持って教えることに通ずるのではないかと思う。

 

事実、

過干渉で育てられた私は、精神だけが早くに大人になってしまい

自立しなければいけない場面で依存してきた。

 

ずいぶんと回り道をしたもんだなぁと思うけれど、

これはこれで必要なルートだったんだろう。

 

本当の私は、未開の地を自分の手で切り開く方が好きなんだと思う。

誰かが作った道は安全すぎて面白くないから。

 

 

 

 

 

「私はコミュ症です」というラベルは、「今いる場所は地球です」というくらいざっくりアバウトなもの。

わたくし、自分で「コミュ症」だと思ってたんですが、どうやらそうではなかったみたいです。「コミュ症」という言葉って「今いる場所は地球です」ってくらいざっくりとしたものだと思います。

初対面でもすぐに打ち解けるひともいれば、ちょっと無理な人、けっこう無理な人、と、いろんなレベルの話せる度合いがあって、自分の中で「これはなんでだろう?」とずっと疑問に思ってたんですね。

学生の頃は「おとなしい人」でとおってたし、就職しても上司からは同じように「おとなしい子、会話が苦手な人」というようなことを言われたこともあります。

でも、大人になって昔の同級生に会ったりSNSなどで話したりすると、だいたい言われるのが「雰囲気かわったね、そんな人だったっけ?」みたいなことを言われます。

髪の色も派手だし、着る服も独特だったり、SNSではけっこうアップするし、自分でもむかしの自分とはちがうかもなぁと思います。

どうしてこのような感じになっているのでしょう。

ふと、わたしは気づきました。

「みんなに同じように(平等に)接しないといけない」という勝手なルールみたいなものを、いつのまにか自分に課していたのかも、と。

わたしが『一対一だといいけど二人以上になると無言になる、疲れる』のは、その場にいる二人が盛り上がった時にもう一人が会話に入れないことを気にしてしまうから。そして逆にあぶれる立場になった時に、自分の世界に閉じこもってしまうことがダメなこと(相手に悪いこと)だと思い込んでいたから。仲間外れにされてる感や、それを認めたくないというのもあったのかもしれません。

 

私は、どんなに有名でみんなが「すごい人」といっても、わたしがその人をすごいと感じる部分がないと「すごい人」と思わないし、同様に「おもしろい人」、「偉い人」、などという世間一般の評価に合わせることは、まず無いです。なぜなら、『自分がどう感じるか』が自分にとっては一番正しいことだから。

わたしがこれまで「コミュ症」だとおもっていたものは、単なる好き嫌いがハッキリしているだけのことと、興味がなければ見向きもしないこと。そして、そんな自分を悟られないように隠そうとしていただけなのかもしれません。

『あ、この人(人間的に)すきだな。』と感じればよく話したり、そのひとの意見をきいてみたり、その人のまわりに落ちているその人に関する小石を拾って、『へぇ~、この人はこんなひとなんだ~』みたいに、わたしにとっての人物像をつくっていくんです。

それが嫌いだったり興味がなければ、小石は一旦拾っても捨てたり、そもそも拾わなかったり気づかなかったり。

 

なんで『みんなと同じように接しないといけない』なんてルールを課してたんだろ。

はぶられた経験が、自分でもおもわないほどの傷になってたからかなぁ。

それなら何となく納得できるような気がします。

これからは「好き、嫌い、興味ない」を全面的に出していこう、そして自分にも他人にもそれを許そうと思います。

 

ちなみに、宇多田ヒカルのすごさがいまいち解らないんですよね。。。

 

『与えよ、さらば与えられん』と言ったヒゲもじゃのおっさんの言葉は、実に正しいと実感した話

とあるカップルの悩み相談を聞いた時の話。

 

彼女の不満は『彼氏が休日の朝はゆっくり寝て、出かけるなら昼から夜にかけて出かけたいという。私は朝から遠出したりしたいのに。例えば月2回ずつ譲るとかしてほしい。』という。そう言う彼女はバツイチ子持ち、まだ子供が小さいため、まぁ分からんでもない言い分である。

 

一方彼氏は『俺は休みはゆっくり寝ていたい。月2回とか無理。』という。そんな彼もバツイチで子供もいたので、結婚歴がない人よりは彼女の状況や環境から〝子供アリの彼女〟の気持ちには寄り添えそうにみえる。

 

表面だけみて彼らの言い分をどっちが良いとか悪いとかで話をすれば、結局のところお互いさまで、シンプルな解決策を言うならば「嫌なら別れたら?」という話になる。

しかしそれでは根本的な問題は解決せず、お互いまた他の誰かと付き合っても、その相手に同じ状況を見てしまう。

何故なら、何か問題が起こったように見えたとき、その問題を作り出しているのは他の誰でもない、自分の心や意識だから。どんなに相手が悪いように見えたとしても、相手をそのように〝見ている〟自分に原因があるのだ。

 

先のカップルの彼氏のスパッと歩み寄らない言い分を聞いた時、私は彼にこう言った。

「今そのような態度で接していると聞いたとき、わたしはホントに相手のこと好きなの?と思ってしまったよ。何でかと言うと、私にとって相手を大事にするとか愛するというのは、相手が喜ぶことをしてあげたいと思ってるから。人それぞれ大事にされ方は違うからね。」

 

すると彼はわたしのボディブローが効いたのか、う〜〜ん……と苦い顔をしながら小さく唸っていた。

 

すると彼はこう言った。

「俺は早起きして出かけたりは出来ないけど、彼女が望んだモノを買ってあげたり食事に連れて行ったりしているんですよ。」

 

それに対してわたしはこう言った。

「それを何と言うか知ってる?『補償行為』っていうんですよ?」と。

彼の見えない分身が腹を押さえながら膝をついたように見えた。

 

だが、彼をそうさせてしまう彼女にももちろん責任はあり、実際彼女が彼に要望する「欲しいもの」は1番ではなく、2番目に欲しいものだったのだ。

人は大抵、本当に欲しいものに対しては臆病なのである。

 

その時の会話では私からも解決したようには見られず、「まぁ、お互いさまなのよ。」と流していた。

そして後日、ふと彼女に聞いてみた。

 

「彼氏から全面拒否されてるようにみえるなら、あなたも彼を同じように扱っている事があるはずなんだけど。それは何?」と。

 

すると彼女はこう答えた。

「あるよ、彼からしたら私に全面拒否されてること。夜にデート出来ないこと、二人で旅行とか行けないこと、元旦那とつながってること(養育費関連の事のみで連絡できる状態にある事)。」

つまり、これらは彼女にとっては彼が望んでも与えてあげれない項目になるのだ。彼が『早起きして一緒に出かける』を彼女に与えてあげれないように。

 

続けてわたしは彼女にこう聞いてみた。

「じゃあ、それらを彼に与えてあげれないとき、どんな感じがする?気持ちとか。」

 

すると彼女はこう答えた。

「罪悪感でいっぱいになる。」と。

 

「じゃあ、彼が早起きしてあげれないとき、今あなたが感じたように、罪悪感でいっぱいなのかもしれないね? その罪悪感でいっぱいのときに、何を与えられたら心が軽くなるかな?」

と聞くと、彼女はそこでようやく気づいたようだ。

 

彼女が本当に欲しかったものは、美味しい食事やモノなどではなく、『俺が望むものを与えてもらえなくても愛してるよ。』という(いま現状の自分が出来る事をそのまま認められているという)「ゆるし」だったのである。

 

自分が自分にダメ出しをしているから、同じことをしている彼をゆるせてなかったのだ。

 

「欲しいものがあるならば、まずは与えよ」という言葉があるが、この言葉の意味が改めてわたしの中に沁みた出来事だったように思う。

 

人は、自分が持っているものしか、与えられない。

もっと欲しいと思ったなら。

その時はまず先に、自分が持っているものを自分でしっかりと確認しなければいけない。

 

罪悪感を持っているなら、罪悪感というフィルターを通したものしか、与えられないのである。

 

実に皮肉で、ユーモアのある仕組みである。

 

今度から「好きなタイプは?」と訊かれたらこう言おうと思う

うちにはテレビがないため、たまにYouTubeで最近の番組のおもしろそうな部分だけを観たりするんですが。

 

先日観たのは「ダウンタウンなう」。

ダウンタウン坂上忍がゲストと一緒にひたすら飲みながら本音トークをするという番組。そのゲストが伊勢谷友介さんの回を観たんです。

 

トーク内容はざっくり言うと、伊勢谷さんのモテ事情についてや、なぜ結婚しないのか、など。

わたしは伊勢谷友介という人があまり好きではなかったのだけれど、この回のトークを観て結構共感をもてるところがあり、ちょっと好きになってしまいました。(ついでにいうと、坂上忍さんも好きになってしまいました。)

 

特に共感したのが「自分のめんどくさい部分」。

わたしも自他共に認めるめんどくさいやつでして。伊勢谷さんは、

【僕もすごい論理的でうるさいんですよ。理屈が合ってないのに伝わるわけないんだから、ちゃんと説明してくれってなっちゃって。でも、(相手の女性に)気持ちなんだもんって言われて・・・】

と言ってたけど、私はさらに加えて「何となく嫌だ。理由はないけど。」みたいな直感を優先する部分もあって、いやぁほんとごめんなさいだけどって感じで。

 

これは何でかというと、わたしは「論理的も感情も同じ」って思っているんですね。

論理的に説明できることは感情的にも説明できるし、逆もしかりだと。表現方法の違いだと思うんです。

 

昔付き合っていた人からもよく「おまえの言ってる事は言い訳がましい。なんも響いてこん。」とか言われたことがありましたが、私から言わせると「いや、こうなってる感情をいま言葉(あるいは図解して)にして説明してるだけなんだけど。」という感じで、つまり当時は相手は感情優位、わたしは思考優位になっていただけで、中身は一緒だったんだろうなと今なら思います。

 

トーク内で伊勢谷さんの【なんで人って生きてるんだ?とか一回は考えたことあるでしょ?】という問いかけに対して、峯岸みなみさんが「ないです」と答えてて。わたしも観ながら『えー?ないの??』と思ってしまったんですけど。

わたしもたまに「人生について」とか「自分の存在について」とか、そういうことを考えることがあって。当然ながら明確な答えは出ないのだけど、ただ何となくそれらについて考えてその時その時の答えをアウトプットして、誰かとあーでもないこーでもないって話をすることが好きなんです。

そんな内容に「俺はね〜、」とか「わたしは〜」って、自分の考えを言える人が好き。

 

だから、中身のない話とか単なる愚痴話とか建設的でない話をすることに対して「自分の時間を割いてまでそんな無駄な話を延々とする意味が分からない」という意識がある(だから世間話が出来ない)し、まぁ、ただ私が興味ないだけだから批判するつもりはないですが、たまにでも論理的な話ができない人とは少し距離を置いてしまう自分がいます。正直ね。

 

【だから、論理的に考えて、行動の原理を見つけて、それを形にするってことを繰り返すことが人生だと思ってるから・・・】

 

という伊勢谷さんの言葉にも共感で、自分と真逆の性質の人に対してはほんとに『ちょっと考えたら分かることなのに、なんで分からないの?』と考えさせられることも少なくなく(自分と同じと思っちゃいけないとはわかってはいますが。)、昔から「考えること」が癖というか、日常生活を送るための標準モードになってしまっているので、逆に『何も考えずに生きていけたら幸せなんだろうか』などと羨ましく思うこともあります。

 

こんな風に、感情を論理的に言葉にして説明しちゃうから、表面的には「冷たい人」と思われるんでしょうね。

表面クールな人って意外と中が熱い人が多い。それって、「いろいろ諦めてきた果ての」クールさなんじゃないかなぁなんてことを、ふと思いました。

 

そうそう。タイトルに戻りますね。

今まで好きなタイプってどんな人?って訊かれて、「白いパンツ(ズボンの方)を履かない人」って言ってきたんですが、これからは『自分の意志をちゃんと持っていて意見交換できる人』も付け足そう。

 

いやぁ〜、でもやっぱり『白いパンツを履かない人』は絶対かも。

 

 

断りにくいお誘いの断り方

最近ちょこちょこ「こんな時どうやって断ればいいんですかね?」ということを聞かれたことが続いたので、メモ程度にブログに残して置こうと思う。

 

私が話を聞いた「こんな時」とは主に異性からの食事やデートのお誘いで、尚且つ「その人を無下に断れない関係にある」場合。例えば職場で毎日顔を合わせる人や、その人と横つながりの人にお世話になっていて何かしら顔を立てなければならない場合など、恋人がいればそれを理由に断ることができるが、いないことを知られている時などである。

この先会う必要もない人なら冷たくあしらえばいいのだろうが、微妙な関係性にあるとそういうわけにはいかず、断ることもできずに自分の時間を苦痛な時間に当てなければいけないという人も少なくない。

そこで、「忙しい」や「架空の用事」を使い尽くした人のために参考になるか定かではないが、私がよく使う断り方をご紹介したい。

 

それがこちら。

『気が向いたらね』

 

色々話をしていて気づいたのだが、年が若い人になるにつれて、他者とのコミュニケーションにおいて「相手が今何を求めているか、何を求めていないか」を察知する能力が乏しく、自分の勢いだけで(パワーだけで)相手を強引に自分のペースに巻き込もうとする傾向があるように感じた。さらに、年が若いに加え、〝オラオラ系〟というか、男性性全開の雰囲気をもつ人にもそれは多いように感じる。

そのような人には〝忙しい〟とか〝今度ね〟などというとその言葉を鵜呑みにされることが多く、いつまでもだらだらと「いつご飯いきます?」と言われ続けるパターンになりかねない。

こっちからすればやんわり断っているつもりでも、そのような相手にとっては「いまは忙しいのか。だったらまた日をおいて誘おう。」という思考になるのである。やんわり断ることが優しいというのは大間違いで、また断る方も罪悪感が募るため、濁す断り方は双方のためにならない。

「気が向いたらね。」という言い方は主導権を自分に持ってくる言い方なるので、そこでグイグイ来られる相手のペースをダウンさせる効果がある。

そして、この「気が向いたらね」を同じ相手に使い続けると、「いつになったら気が向くんですか?」と言われることがあるかもしれない。

その時は怯まずにこう言いましょう。

「うーん。ずっと気が向かないかも。えへへ(笑)」と。チャンスです。

 

お誘いを断りたい時って、つまり「気が向かない」ということ。その行間には「あなたとは」とか「そもそもめんどくさい」とか「どうせ行っても楽しくないのわかってる」とか、色々あるかもしれないが、「気が向かない」という言い方は本音でもあり、誰のせいにしているわけでもなく、架空の用事を作らなくてもよく、相手を傷つけず、しかもそれ以上相手をこちらの領域に踏み込ませない、シンプルな断り方なのである。

そして、万が一気が向いたらその気持ちに従えばいいだけのことなのだ。

半永久保留、「気が向いたらね。」

そのセリフにハート以外のカワイイ絵文字でもつけときゃいいんですよ。

 

 

話をすることとおしゃべりの違いについて考えてみた

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今でこそ色々な人にブログを読んでもらう機会があり、「読みやすい、分かりやすい」とありがたい言葉を頂く事がありますが、実は「話をすること」に対してコンプレックスの塊だったんですね。
それに追い打ちをかけたのは昔、母親に言われた一言。『あんたの話分かりにくい、何がいいたいか分からん。』。

それが悔しくて、「話が上手な人はどんなふうにしてるんだろ?」と研究したわけです。

女性は基本「おしゃべり」は得意ですが「話をして伝える」は不得意な生き物です。それは何故かというと、感情が優位になるような性質ということ。そして『伝えたいこと』が自分でも把握できていないからなんですね、恐らく。

なので、「この人話長いし何が言いたいか分からんなぁ…」て人は自分のこと(思考や感情)をよく理解してない人が多いように思います。(性別問わず)

今わたしは相手に何を伝えたいのか。

これは言い訳じゃないか。

相手のせいにしてないか。

自分の気持ちや本音はどれか。

こう言ったことを考えながら言葉をそぎ落としていくと、本当に大事なことがシンプルに残ると思います。

「私はこう思います、こうしたいです、ここまでは出来ます。あなたはどうですか?」という、とてもシンプルなテンプレートなんですよね。これを一番はじめに言う。

それから、ああでもないこうでもないと相手の領域とすり合わせていって、お互いの真ん中を見つける、話を落としていく。

 

話のポイントを見失うと同じ会話をぐるぐる繰り返して疲れるけど、一つのポイントについてディベートしているとまったく疲れず、むしろその会話によってその場にいる人が活性化され、「あー楽しかった!すっきり!」という感じでちゃんと終わるような気がする。

 

こうして考えていると、何をするでも「自分主体」のスタイルが大事だなぁと思う。

自分を主体にすることで、関わる相手との健全な線引きができる。自分も相手も大事にすることができる。

分かりやすく相手に伝えるというのは、相手に対する思いやりでもあるわけです。

 

この流れで「言葉の要らない会話と言葉の必要性」について思うことがあるので、また…気が向いたら書きます。

 

 

 

 

長い間心に突き刺さったままの腐った釘の話(傷つくのが怖い人の話)

最近気づいたこと。

私は「嘘をつく人が嫌いだ」ということ。

「嘘」にも色々あるが、私が云うその「嘘」とは、主に『自身の本音をストレートに表現せずに、察して欲しいという気持ちからくる建前。』という言い方が一番近いだろうか。

まぁ、とにかく嘘つくやつは嫌いだ!という思考が私の中にあった。

心理学的に言えば定番の「投影」ということになるので、「、、、ということは、自分の中にも同じものがあるか、又は過去にあった出来事を繰り返している。もしくはそのどちらも、ということか、、、。何だろう。」と思ったのが今回のこの話の始まりである。さらに、なぜこんなめんどくさいようなことを考えたのかというと、自分のめんどくささに飽き飽きし、もう終わりにしたいと心の底から決意したからである。

 

妹とこの話をしていると、「あんたがいう嘘ってのは浮気されたことが関係してんじゃないの?」と言われた。

時は遡り私がハタチそこそこの年の頃。私は当時約2年程付き合っていた彼氏に振られた。しかも原因は向こうの浮気。つまり、私は捨てられたのだ。

自慢じゃないが、私は自分でも嫌になるくらい勘が鋭すぎる。

それまで何とも思わなかったのだが、ある日、ふとした瞬間に何かがぷつっと切れる感覚があった。おそらく彼の気持ちが此方から彼方へと移った瞬間だったのかもしれないし、ただ単純に私との見えない繋がりの糸のようなものが切れたのかもしれない。その時私は何も聞いてないし確かめもしてないのに「あ、終わったかも。」とだけ思った。

それから連絡をするが、一向に彼からの返信はなかった。

そして何日かたったある日、「ごめん。別れよう。」みたいなメールがきた。

何が原因だったかサッパリわからなかった私は納得できるはずもなく、その理由を知りたいのとまだ別れたくないということを言う為に電話をした。

簡単に言うと「友達みたいになっちゃって恋人に思えなくなったから」と言われた。

今の私から言わせてもらえれば「ハァ?何言ってんの?そっちの方がいいじゃん。」って感じなのだが、当時の私はまだ『恋愛』というものに不慣れで、「恋人みたいじゃないってなに?セックスが下手ってこと?」というトンチンカンなことしか浮かばなかった。

もちろん理由は全然違う所にあり(これが分かったのもごく最近のことなのだけど)、彼がいう「友達みたい」は、仕事終わりに迎えにいくとか、用事がなくても電話をかけてくるだとか、わがままいうとか、そういった女子的な要素が私に感じられなくなった。ということらしい。

現に私は電話が苦手(電話するなら会いたい)だし、当時まだ美容師の下っ端で営業後に練習などがあり、帰るのが夜中になるのがざらだったし、四人兄弟な為思いっきり長女気質で「自分のことは自分でする」スタンスを子供の頃から親に強いられていた。彼が求めていたのは「一般的な彼女」であり、素のままの私とは程遠いのである。

さらに私は恋愛経験が少なく、「一旦お付き合いしましょう」となれば別にわざわざ毎日電話する必要性もないというある種の相手に対する〝信頼感〟があったような気がする。なので、おそらく自分から彼に電話したことは用事以外一度もなかった。

今こうやって書きながら「男みたいなやつだな」と思ってしまった。

そりゃ当時の彼も冷めるわな。

このように、相手のことを一ミリも疑ってなかった私が、ある日突然彼の裏切りのため、体が裂けるかと思うくらいのショックを味わうことになった。

この人と結婚するんだろうな。まで思っていたのに、知らない間に女を作り、気持ちも全部逝ってしまった彼に対し、電話越しにみっともないくらい号泣し、悪いところは直すから考え直して欲しいとひたすら懇願したが、彼の答えは変わらなかった。

その時の私の感情の荒れ具合は相当だったと思う。今でもその光景ははっきり覚えている。そしておそらくその瞬間が、私の人生のトラウマを刻んだのだった。

 

その後、付き合う人付き合う人ほぼ全員に「浮気をされる」または「距離を置かれる(物理的にも)」という現象が続くようになった。

 

その彼と付き合っていた間、私は結構「そのままの自分」だったように思う。

しかし、

彼に見合う女になるには、そんな自分に嘘をつくしかない。

ありのままの自分でいると拒否されるのか。

、、、みたいな思考が潜在意識にインプットされたのだろう。今過去を振り返ると、過去に付き合った人たちに自分の素を出していたかと聞かれたらノーである。

だって私は「恋人には聞き分けのいい女」に成り下がってしまったのだから。

「聞き分けのいい女」の時は浮気され、

「どうしても心を開けない人」には物理的な距離が生じた。

 

あれから十数年たち、現人生の目の前にいる人に対してもあの時にインプットされたトラウマから生じる「繰り返す反応」に、私はもう心底嫌になったのだ。

もういいでしょう、解放されても。

目の前にいる人は関係ないのに、過去のフラッシュバックが現在の些細な行動と結びつけてしまう。関係を深めたいのに、腐った釘が邪魔して、なかなか信頼できないでいる。本当は近寄りたいのに、傷つくのが怖すぎて近寄れないでいる。

 

冒頭の話に戻る。

『自身の本音をストレートに表現せずに、察して欲しいという気持ちからくる建前。』というのはつまり私のことで。

本当の自分を見せたら、また、嫌われるんじゃないか。

みたいな思考がべっとりと張り付いていたのだ。

なので、ハタチそこそこから最近までの人生の大半を、傷つくのが怖いという理由で、「言葉で自分の気持ちを表現すること」ができなかった。主に恋愛の分野で。

結構ひん曲がった表現をしてたんだなぁ、そりゃ伝わらんわ。と思った。

 

最近とある本を読んで、その本に「自分中心の表現」をすることがいかに大切か。ということを知り、じゃあ私が当時浮気された時に、本当は相手に自分の〝どんな気持ち〟を伝えたかったんだろうか。その本に書いてあった例に当てはめながら考えてみた。

「自分中心の表現」とは、「感情の言語化+意志」さらに「矛盾する気持ちも言語化」するというもので、これを踏まえて当時付き合っていた浮気した彼氏、さらに今まで付き合った中で『浮気した彼氏全員』に捧げます。当時の私の気持ちになったつもりで、めちゃくちゃ恥ずかしいけど、手紙を書いたので読んでください。

 

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『浮気した元彼(たち)へ』

あなたが浮気していることを知って、正直体が引き裂かれるくらいのショックを受けました。とても傷つきました。

私と会ってない時に他の女と楽しんでいたり、その人のことを大事に扱っていたのかと思うと、すごくさみしい。

同時に、私があなたにしてあげれることがなかったのかなぁと思うと、それがそれで申し訳ない気持ちにもなりました。

このような気持ちがあったとしても、今でもあなたのことが好きだし、あなた自身を嫌いになった訳ではありません。

だけど、またこんなことがあったら、、、と思うと、つらいです。

信頼が崩れたり、お互いの関係に対して責任が持てないのなら、別れるという選択肢を選んだ方がいいのかなぁと 思っています。

正直、今すぐには 気持ちが整理できません。

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私の気持ちよ、成仏したまえ。

 

 

「嫌われるのがこわい人」のための自己主張レッスン

「嫌われるのがこわい人」のための自己主張レッスン