私の中のワタシを忘れるために

錠剤は一粒ずつしか飲み込めない人が書くブログ。

話をすることとおしゃべりの違いについて考えてみた

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今でこそ色々な人にブログを読んでもらう機会があり、「読みやすい、分かりやすい」とありがたい言葉を頂く事がありますが、実は「話をすること」に対してコンプレックスの塊だったんですね。
それに追い打ちをかけたのは昔、母親に言われた一言。『あんたの話分かりにくい、何がいいたいか分からん。』。

それが悔しくて、「話が上手な人はどんなふうにしてるんだろ?」と研究したわけです。

女性は基本「おしゃべり」は得意ですが「話をして伝える」は不得意な生き物です。それは何故かというと、感情が優位になるような性質ということ。そして『伝えたいこと』が自分でも把握できていないからなんですね、恐らく。

なので、「この人話長いし何が言いたいか分からんなぁ…」て人は自分のこと(思考や感情)をよく理解してない人が多いように思います。(性別問わず)

今わたしは相手に何を伝えたいのか。

これは言い訳じゃないか。

相手のせいにしてないか。

自分の気持ちや本音はどれか。

こう言ったことを考えながら言葉をそぎ落としていくと、本当に大事なことがシンプルに残ると思います。

「私はこう思います、こうしたいです、ここまでは出来ます。あなたはどうですか?」という、とてもシンプルなテンプレートなんですよね。これを一番はじめに言う。

それから、ああでもないこうでもないと相手の領域とすり合わせていって、お互いの真ん中を見つける、話を落としていく。

 

話のポイントを見失うと同じ会話をぐるぐる繰り返して疲れるけど、一つのポイントについてディベートしているとまったく疲れず、むしろその会話によってその場にいる人が活性化され、「あー楽しかった!すっきり!」という感じでちゃんと終わるような気がする。

 

こうして考えていると、何をするでも「自分主体」のスタイルが大事だなぁと思う。

自分を主体にすることで、関わる相手との健全な線引きができる。自分も相手も大事にすることができる。

分かりやすく相手に伝えるというのは、相手に対する思いやりでもあるわけです。

 

この流れで「言葉の要らない会話と言葉の必要性」について思うことがあるので、また…気が向いたら書きます。

 

 

 

 

長い間心に突き刺さったままの腐った釘の話(傷つくのが怖い人の話)

最近気づいたこと。

私は「嘘をつく人が嫌いだ」ということ。

「嘘」にも色々あるが、私が云うその「嘘」とは、主に『自身の本音をストレートに表現せずに、察して欲しいという気持ちからくる建前。』という言い方が一番近いだろうか。

まぁ、とにかく嘘つくやつは嫌いだ!という思考が私の中にあった。

心理学的に言えば定番の「投影」ということになるので、「、、、ということは、自分の中にも同じものがあるか、又は過去にあった出来事を繰り返している。もしくはそのどちらも、ということか、、、。何だろう。」と思ったのが今回のこの話の始まりである。さらに、なぜこんなめんどくさいようなことを考えたのかというと、自分のめんどくささに飽き飽きし、もう終わりにしたいと心の底から決意したからである。

 

妹とこの話をしていると、「あんたがいう嘘ってのは浮気されたことが関係してんじゃないの?」と言われた。

時は遡り私がハタチそこそこの年の頃。私は当時約2年程付き合っていた彼氏に振られた。しかも原因は向こうの浮気。つまり、私は捨てられたのだ。

自慢じゃないが、私は自分でも嫌になるくらい勘が鋭すぎる。

それまで何とも思わなかったのだが、ある日、ふとした瞬間に何かがぷつっと切れる感覚があった。おそらく彼の気持ちが此方から彼方へと移った瞬間だったのかもしれないし、ただ単純に私との見えない繋がりの糸のようなものが切れたのかもしれない。その時私は何も聞いてないし確かめもしてないのに「あ、終わったかも。」とだけ思った。

それから連絡をするが、一向に彼からの返信はなかった。

そして何日かたったある日、「ごめん。別れよう。」みたいなメールがきた。

何が原因だったかサッパリわからなかった私は納得できるはずもなく、その理由を知りたいのとまだ別れたくないということを言う為に電話をした。

簡単に言うと「友達みたいになっちゃって恋人に思えなくなったから」と言われた。

今の私から言わせてもらえれば「ハァ?何言ってんの?そっちの方がいいじゃん。」って感じなのだが、当時の私はまだ『恋愛』というものに不慣れで、「恋人みたいじゃないってなに?セックスが下手ってこと?」というトンチンカンなことしか浮かばなかった。

もちろん理由は全然違う所にあり(これが分かったのもごく最近のことなのだけど)、彼がいう「友達みたい」は、仕事終わりに迎えにいくとか、用事がなくても電話をかけてくるだとか、わがままいうとか、そういった女子的な要素が私に感じられなくなった。ということらしい。

現に私は電話が苦手(電話するなら会いたい)だし、当時まだ美容師の下っ端で営業後に練習などがあり、帰るのが夜中になるのがざらだったし、四人兄弟な為思いっきり長女気質で「自分のことは自分でする」スタンスを子供の頃から親に強いられていた。彼が求めていたのは「一般的な彼女」であり、素のままの私とは程遠いのである。

さらに私は恋愛経験が少なく、「一旦お付き合いしましょう」となれば別にわざわざ毎日電話する必要性もないというある種の相手に対する〝信頼感〟があったような気がする。なので、おそらく自分から彼に電話したことは用事以外一度もなかった。

今こうやって書きながら「男みたいなやつだな」と思ってしまった。

そりゃ当時の彼も冷めるわな。

このように、相手のことを一ミリも疑ってなかった私が、ある日突然彼の裏切りのため、体が裂けるかと思うくらいのショックを味わうことになった。

この人と結婚するんだろうな。まで思っていたのに、知らない間に女を作り、気持ちも全部逝ってしまった彼に対し、電話越しにみっともないくらい号泣し、悪いところは直すから考え直して欲しいとひたすら懇願したが、彼の答えは変わらなかった。

その時の私の感情の荒れ具合は相当だったと思う。今でもその光景ははっきり覚えている。そしておそらくその瞬間が、私の人生のトラウマを刻んだのだった。

 

その後、付き合う人付き合う人ほぼ全員に「浮気をされる」または「距離を置かれる(物理的にも)」という現象が続くようになった。

 

その彼と付き合っていた間、私は結構「そのままの自分」だったように思う。

しかし、

彼に見合う女になるには、そんな自分に嘘をつくしかない。

ありのままの自分でいると拒否されるのか。

、、、みたいな思考が潜在意識にインプットされたのだろう。今過去を振り返ると、過去に付き合った人たちに自分の素を出していたかと聞かれたらノーである。

だって私は「恋人には聞き分けのいい女」に成り下がってしまったのだから。

「聞き分けのいい女」の時は浮気され、

「どうしても心を開けない人」には物理的な距離が生じた。

 

あれから十数年たち、現人生の目の前にいる人に対してもあの時にインプットされたトラウマから生じる「繰り返す反応」に、私はもう心底嫌になったのだ。

もういいでしょう、解放されても。

目の前にいる人は関係ないのに、過去のフラッシュバックが現在の些細な行動と結びつけてしまう。関係を深めたいのに、腐った釘が邪魔して、なかなか信頼できないでいる。本当は近寄りたいのに、傷つくのが怖すぎて近寄れないでいる。

 

冒頭の話に戻る。

『自身の本音をストレートに表現せずに、察して欲しいという気持ちからくる建前。』というのはつまり私のことで。

本当の自分を見せたら、また、嫌われるんじゃないか。

みたいな思考がべっとりと張り付いていたのだ。

なので、ハタチそこそこから最近までの人生の大半を、傷つくのが怖いという理由で、「言葉で自分の気持ちを表現すること」ができなかった。主に恋愛の分野で。

結構ひん曲がった表現をしてたんだなぁ、そりゃ伝わらんわ。と思った。

 

最近とある本を読んで、その本に「自分中心の表現」をすることがいかに大切か。ということを知り、じゃあ私が当時浮気された時に、本当は相手に自分の〝どんな気持ち〟を伝えたかったんだろうか。その本に書いてあった例に当てはめながら考えてみた。

「自分中心の表現」とは、「感情の言語化+意志」さらに「矛盾する気持ちも言語化」するというもので、これを踏まえて当時付き合っていた浮気した彼氏、さらに今まで付き合った中で『浮気した彼氏全員』に捧げます。当時の私の気持ちになったつもりで、めちゃくちゃ恥ずかしいけど、手紙を書いたので読んでください。

 

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『浮気した元彼(たち)へ』

あなたが浮気していることを知って、正直体が引き裂かれるくらいのショックを受けました。とても傷つきました。

私と会ってない時に他の女と楽しんでいたり、その人のことを大事に扱っていたのかと思うと、すごくさみしい。

同時に、私があなたにしてあげれることがなかったのかなぁと思うと、それがそれで申し訳ない気持ちにもなりました。

このような気持ちがあったとしても、今でもあなたのことが好きだし、あなた自身を嫌いになった訳ではありません。

だけど、またこんなことがあったら、、、と思うと、つらいです。

信頼が崩れたり、お互いの関係に対して責任が持てないのなら、別れるという選択肢を選んだ方がいいのかなぁと 思っています。

正直、今すぐには 気持ちが整理できません。

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私の気持ちよ、成仏したまえ。

 

 

「嫌われるのがこわい人」のための自己主張レッスン

「嫌われるのがこわい人」のための自己主張レッスン

 

 

 

好き嫌いがはっきりしている話

とりあえずいま、アイフォンの充電が6パーしかないけど、思い立ったので書き始めます。

 

今日は仕事終わるのがおそかったので、近所にある遅くまで開いていて気軽に入れる〝や◯い軒〟に寄って晩御飯を済ませることにした。

 

ココは食券システムなので、店内に入る前にまず食券を買わないといけない。食券機が二台あるのだが私が入ると二台とも鈍臭そうな夫婦が陣取っていて、あぁでも無いこうでも無いとダラダラと選んでいた。

 

私は絶好調にお腹が空いていたし、一日中働いてきた疲れもピークに達していたため、「はよせぃや!!!」と叫びたいところだったが、一応大人なので、そこはグッとこらえた。

 

ひとりのババアは「こっちよりこっちの方が量があって安い」だの「チゲかぁ〜〜最近辛いのダメなのよねぇ〜〜」だのとぶつぶつ言いながらダラダラしていたので、「お前のチゲのこととか知らんわ!」と叫びたいところだったが、これでも大人なので、小さく舌打ちだけにしてみた。

 

腹が減ってるのだよ。

 

やっとこさひと組のババアたちが退いたので、私は最初から決めていたチーズハンバーグ定食の食券を買った。雑穀米に変更して。

 

やっとたべれるぜ〜〜と席についたとき、ふと先程のババアたちが何故あんなに「自分が食べたいものが分からないのか」を考えてみた。

 

わたしの場合、何か食べに行くときはあらかた「何の気分か」が決まっている。それは食べたいものの種類に限らず、もし誰かと行くならその人とのシチュエーションを含めた雰囲気を考えるし、ひとりなら、まず何を優先するか考えながらその中で食べたいものを決める。

 

例えば今日なら、

・夜9時以降

・なるべく人の手が作ったやつ

・米

・さっと食べて帰りたい

・猫のご飯も買わなきゃ

 

という要因があったので、トータルで出来る限りそれらの要因を満たせるところが〝やよい軒〟だった。

あ、◯にするの忘れた。もういいね。

 

私の場合、こうして優先順位を決めて行くと行くべき店が決まり、店が決まれば「あそこならアレを食べよう」が絞り出される。

そして大体席に座る頃には選ぶメニューは決まっている。

 

服を買うのも早い。

私が服を買おうとするときも、食べ物と同じで、「色は何系、サイズ感はこれ」とか、「色は黒で変な服」みたいな感じで大体のイメージを決めていく。

すると、不思議とイメージに近いもの、或いはピッタリなものがあり、店に入って最初からそれがそこにあるのを知っていたかのように華麗にサッとレジに持っていく。あまりに早すぎて店員さんに「はやっ!」っと突っ込まれそうなレベルである。

 

こういう買い物が何故出来るかというと、自分の体型のメリットデメリットを知っていて、似合う型似合わない型(例えば太って見える襟の形、とか。)を把握していて、それを基準にあとはその時の気分の色などをチョイスすればいいことを分かった上で買いに行くからだと、わたしは思っている。

だから、自分の服を自分で選べない人の気持ちがよく分からない。

(こだわりのない人と選べない人は違います)

 

これは人間に対してもあるかもしれない。

わたしは、好きな人種と興味の無い人種がはっきり分かれている。

好きな人種は、深みのある話が出来る、かつユーモアも感じられる人たちだ。

単に真面目な人間や薄っぺらい話しか出来ない人間にはあまり興味がわかない。

例え答えが出ないとしても、自分の言葉でディベートできる人は、人間的に興味がわく。そこにその人だけのオリジナリティが見え隠れするからだ。

 

好き嫌いがはっきりしている、とか言いながら、たまに「何でもいい」という時がある。

つまりその時一緒にいる相手に対していう場合なのだけれども、この「何でもいい」をもう少し詳しく説明すると、「あなたの選ぶものは私が選ぶものと似通っているので、それならば今はあなたが選ぶものを優先していいですよ。それはあなたが心地よくいれるであろうから、私もあなたにそうで在ってほしいんです。それに、たまには自分で選ぶよりもあなたが選ぶものによって、何か新たな発見や面白い展開になるかもしれないじゃないですか。いまはそんな気分です。」

の、『何でもいい』なんです。

 

 

 

 

愛でる話

むかし、ひょんな繋がりで出会ったいわゆる「視える人」に、言葉通り「視て」もらった記憶を、ふと思い出した。

 

そのとき言われた話はほとんど覚えてないけれど、ひとつだけ今でも覚えていることがある。

 

『あなたはもうちょっと自分を可愛がってあげて。愛でてあげなさいね。』

 

はて。「愛でる」とはなんぞや?

当時自分を擦り切れたボロ雑巾のように扱っていた私は、この「愛でる」という言葉も感覚も、まったく知らなかった。

 

「愛でる」とは、愛して大事にすること。と、ぐぐったら書いてあった。

愛の基準なんて人それぞれだとは思うけど、今の私にとって「愛」って、その対象の存在を生かしてあげることかなぁとフンワリ思っている。植物ならその植物が気持ちよくいれるように、動物や人でも同じく、これらに共通するのは「付かず離れずの距離感で大事に取り扱う」みたいな感じかなぁ。

 

先の話に戻る。

自分を愛でる、となると、自分という対象を愛して大事に取り扱う。となる。

すると、この「自分」を対象としてみるには「自分となにか」で見る必要がある。

ここでいう「なにか」とは、自分の中の核みたいなもんだと思うけど。

自分を、付かず離れずの距離で大事に取り扱う。

そうだね。

くっつきすぎたら傲慢になるし、離れすぎたらささくれになってしまう。まぁそんな感じだろうと思う。

 

今現在の自分を愛でれているかというと、自分で言うのもあれだけど、けっこう愛でてる。

昔ほど変に我慢をしたり、ボーダーライン超えるほど頑張ったり、気分のムラもなくなった。

自分が心地よくいれる人を選べるようになった。自分と他者の色々な線引きが出来るようになった。敏感すぎる自分の性質をプラスに使えるようになった。

ずっと普通。普通が一番。

 

自分を大事にしだすと、自分以外の人やモノの扱い方が変わってくる。

大切にされると心地よい事がわかるから。

そしてそれを相手にも味わってもらいたいから。

だから、「尊重する」の意味がわかる。

「あなたが心地よくいれる選択が出来るようにサポートするよ。」って感じ。

 

 

余談ですが。

愛でるついでに言うと、私は寒くなると布団とコタツをめっちゃ愛でます。

布団は一式モフモフ仕様にするから、布団も味わいたいし、コタツも味わい方に段階があるから、冬は時間配分が難しいんですよ。

 

 

以上、現場(布団)からお送りしました。

 

 

 

割れて、壊れたものの話

さぁて。今日で一週間経ったから、ブログに書きとめておこうと思う。

なにが一週間経ったのか。

それは、あるものが壊れてからだ。

壊れて、というか、割れて、と言った方がいいのかもしれない。

その、「割れて、壊れた」ものがまだ「割れて、壊れてなかった頃」の話をしたい。

 

ある日、私が住んでいるぼろアパートの隣に一人の女性が越してきた。歳は40代はじめ〜半ば頃だろうか。見た感じ冴えない雰囲気の、普通の女性だった。

 

それと同時に、その女性の部屋の玄関の外の横っちょの方に、わりとサイズ感のあるお雛様とお内裏様のワンペアがモヤモヤしたオーラを醸し出しながらジッと佇んでいた。

それだけでなく、そのワンペアの後ろには今にも走り出しそうに前足を跳ねあげた馬の置物と、馬よりも一回り大きいサイズのフクロウもいた。現実になるとそのサイズの対比は明らかにおかしい。フクロウが一番デカイんだから。

 

そいつらはみんな、おそらく陶器で出来ていて、よくおばあちゃんちの玄関とかにズラッと並んでいる、タンスにゴンと線香の匂いしかしなさそうな奴らだと思ってもらって構わないと思う。

 

もうすでに存在感からおかしいのだけれども、なぜそのような本来なら家の中にありそうな置物たちをわざわざ外に並べているのか。なぜお雛様セットと馬とフクロウなのか。色々なことが謎すぎる。

もしかして、魔除けなの?とも考えたけど、彼らにはどうにも魔をよけれそうな力があるとは思えない。

女性が越してきてもう半年以上はなると思うが、彼らのフォーメーションは崩れることはなかった。

 

だが。

一週間前、私が仕事から帰ってきて玄関に向かう途中、ふと視線を落とすと、破片がちらばっていた。

 

お雛様が粉々に割れてちらばっていたのだ。

 

私は思わず、

「あ……死んでる……。」と声に出してしまった。

 

それから一週間、女性の部屋は電気がついていたり車があったりしたので家にいたはずなのに、割れたお雛様は粉々に散らばったまま、今もなおその状態を保っている。

 

 

そして、割れて壊れたものはそれだけではない。

 

お雛様が壊れたのと同日くらいのある朝。

いつもの集金のオジさんが来たので玄関を開けると、オジさんは集金よりも先に隣を指差しながらこう言った。

「なんか、梅のビンが割れとんよね。すごい匂いがするよ。」と。

 

え?と言いながら外をみると、例の女性の部屋の玄関の横っちょに、ビニール袋に入った自家製梅酒のビンが割れ、そこら辺に梅が飛び散り、潰れていた。

 

えーー?なんで??

と、集金のオジさんと話して、まぁ帰ったら片付いてるやろうと私は勝手に思っていたが、その日の夜も次の日も、また次の日も、割れた梅のビンはその瞬間をキープしていた。

そして今日で約一週間くらい経つのだが、割れたビンもビニール袋に入ったまま、潰れた梅もその場を離れることもなく、いまだに状態を保っている。

 

 

アスファルトからロンドンパンクが聞こえた夜

宇宙は愛で満たされているのかもしれないし、そのことは意識のどこかで理解していることは知っているのだけれど、それをわざわざ「宇宙は愛でできている」みたいなことを口に出して言う人のことを、私は信用したくない。

 

幸せは好きなのに心の何処かでは「幸せになんてなりたくない」と思っているような気がする。

だから私はあからさまに「幸せ」を強調して見せびらかすような行為をする人のことが鼻についてしまう。

もうそれは側からみれば宗教のようで(私は密かにハッピー教と呼んでいる。)、そんなのただ寄り集まって傷を舐めあっているだけじゃないか、ケッ。とか思いながら冷めた目を向けてしまう。かと思えば、そんなに何かに狂うほど陶酔できることを羨ましくも思う。

 

もう何年前になるだろうか、子供の頃から父親のように慕っていた母方の叔父が亡くなった。

その時私はふと思った。

 

「自分が死んでも世界はいつもと変わらずに動き続けるんだ……。」と。

葬式などという非日常のイベントはあれど、それが終わればそれぞれがまた日常に戻っていく。朝起きて、ご飯をたべて、仕事に行って、というような日常に。

当たり前のことなのだけど、少し不思議に感じた。

 

先日、職場の近くで車どうしの事故があったらしい。そして死亡事故だったらしい。らしい、といいながら私はその時現場を通ったのだけど。

まったくどこのだれか知らないし、おじさんかおばさんか若い人かなにかも分からないけど、それを聞いたとき私の中では「へぇ、、」で済まされないものがあった。

その人、朝普通に家から出て、家族がいれば家族もそれが当たり前で、でもその何時間か後に死んじゃったんだ。とか、

事故が起きる数秒前まで何とも思ってなかったんだろうなぁ。とか、

前の日の夜に喋った誰かも、明日その人が死ぬとか思わなかったんだろうなぁ。とか、

来週楽しみな予定が入ってたりしたのかなぁ。とか。

 

私はなぜか、普段から時間を逆回転してしまうクセがある。昔「スライディング・ドア」という映画があったけど、あんな感じで、脳内で時間を巻き戻して別のパラレルワールド的な時間軸を想像してしまう。

 

以前付き合っていた恋人に、当時、何か物事の優先順位について話していたときに「明日死ぬかもしれんから、私はその時最善の選択をするようにしている。」(ここでいう最善の基準は、自分の心に従うという意味。)と話したところ、彼は「そんなこといっても、俺は恐らく明日も明後日も生きてるはずやからなぁ」みたいなことを言っていた。

そこで私は、この人とは生きるペースやベクトルが違うんだなと悟った。

 

別に生きることに切羽詰まってるわけじゃぁないんですが。まぁ、ただ、もし仮に、夜寝て朝目覚めれなくて死んじゃって、数日気付かれなくて身体が腐りはじめて、そしたら猫たちに申し訳ないなぁとか、猫たちの世話は誰かしてくれるだろうかとか、とりあえずその辺はふんわり考えたりもしますがね。

 

まぁ、ダラダラ纏まりのない事を書きましたが、結局のところ最終的に「どうにでもなればいい」っていう選択肢ってけっこう大事なんだなぁと、最近改めて思ったわけです。

 

 

 

味噌汁の食べ方が気に入らなかった話

お久しぶりです。

もうずいぶんと更新していなかったので忘れ去られているかと思いますが、「もうそろそろ時効だから書いてもいいかな?」という話がいくつかあるので、書き留めておきましょう。その中の一つです。

 

以前、SNSで仲良くなった県外(関東)の男性から「福岡に遊びに行くから案内してほしい」と言われまして、遊びに行った時の話です。

 

わりと急な話(来る予定日の1週間前とか)だったのですが、たまたま私の休みと被っていたのでOKしました。が、なんとなく最初から向こうの段取りの悪さにイラっとしてしまう場面もあり、今思えば最初から断るべきだったなぁと思いました。

 

その段取りの悪さとは、「飛行機のチケットは取ったけど宿は取れていない」と福岡に来る日の前々日くらいに言ってきたこと。

 

は?なんで?バカじゃないの?

 

と思いましたね。普通に。

それからネットで宿を探したらしく、空港は福岡なのに、そこから電車で二時間もかかる某ア◯ホテルに取れたと連絡が。

ひとまず安心し、行ってみたいところがあるかと聞いてみたら、「軍艦島に行きたい」と。

 

いや…そこ福岡じゃないし。

恋人とかと行くレベルの場所やし。

まずそこまで車出す気はないわ。(車で約四時間半からの、船で一時間程)

朝何時に出発せないかんと思っとん。

いくら土地勘ないにしてもグーグルで調べてから言えよ。

 

などという私の心の声がそよ風にのってさらぁっと吹いた次の瞬間、「ごめん、それはムリ。島に行きたいなら大島にしよう。」と、最近世界遺産にも登録されたらしい沖ノ島の参拝所がある大島へ行き先を決めたのであった。半ば強引に。

 

大島という島があり、しかもフェリーで30分弱くらいで行けることを初めて知った、私が行きたかっただけなのだが。

そして民宿で海の幸が食べれる。

ということで、福岡は宗像にある大島へ船に乗ってランチしに行くプランに決定した。半ば強行に。

 

当日の朝、彼が泊まっていた某ア◯ホテルに迎えに行き、そのまま大島へ直行した。

 

フェリーというから、よくあるフェリーの感じをイメージしていたら、予想に反してわりと小型の、座席が敷き詰められた船だった。乗った感じもよくあるフェリーを予想していたら、これまた予想に反してかなり揺れるし、船酔いなどしなかった私が吐く一歩手前になるくらいまで酔ってしまった。

酔った私の横に座っていた彼も、ずいぶんと顔が青くなっていた。自分自身もやばいくらいだけど、人に吐かれるのはもっと嫌だ。それだけは勘弁してくれ、と心の中で祈りながら只ひたすら精神を統一していた。

すると、隣にいた彼がケータイを見ながら、先ほど支払ったフェリーのチケット代を家計簿に入力していた。

(いま、付けるなよ。)と、吐きそうな胃を食い止めるために統一している精神が揺らぎながら、イラっとしてしまった。

 

なんとか無事に島にたどり着き、足元もフラフラになりながら船を降りた。

ランチに行く前に船酔いなんてマジであり得ない状況の中で、彼は細やかな「イラつき」というジャブを終始打ってくるのだが、この時私はまだその気配を感じ取れていなかった。

 

予約した民宿はフェリー乗り場まで車で迎えに来てくれるというので、遠慮なくお願いした。

 

客は私達だけだったが、きれいな広い和室に通され、テーブルからは海が見渡せる絶好のロケーションだった。

私はお刺身の定食を、彼は魚の煮付け定食を注文し、1000円にしてはゴージャスなお膳が目の前に用意された。

 

普通に食べていると、彼がおもむろにお味噌汁のお椀の蓋を取り、味噌汁をすすり、またお椀の蓋をしてお膳に戻した。その一連の動作を、味噌汁をすするたびに繰り返していた。

何故そうするのか気になって仕方がなかったので、不思議に思った私は彼にきいてみることにした。

 

「ねぇ、何で蓋をいちいち閉めるの?関東の人はそうやって食べるのが普通なの?」と。

すると彼はこうこたえた。

『味噌汁が冷めるのが嫌なんだよね。他の人はしないけど、特に突っ込まれたことなかったなぁ。』

「いや、味噌汁は冷めるもんでしょ。」と、なんかもうよく分からないけどイラっとした。

 

後日思ったのが、「宿が取れない」とか言ってる段階で気付くべきだったんだなぁと。

あの時わたしの中の神は訴えかけていたのに。

 

何かがスムーズにうまく行かない時は、そのタイミングじゃないか、選択肢を間違えているときなのだ。

 

「おい、やめとけ。時間の無駄だぞ。味噌汁のお椀の蓋でイラっとするぞ。」(by 神)