私の中のワタシを忘れるために

錠剤は一粒ずつしか飲み込めない人が書くブログ。

映画「シェフ」にみる『良い波』に乗る方法

2017年一発目の映画観賞は、今更ながらやっとみた『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』。よくある料理映画かと思っていたら、なんのこっちゃない、現代の流れにうまく乗ったマーケティングのやり方や、仕事とは?といった視点、そして自分に与えられた能力を最大限に引き出す方法や、ハプニングをチャンスに変える逆境に負けないマインドなど、沢山のメッセージが随所にちりばめられていて、テンポもよく観ている私もハッピーな気分になった作品です。

個人的に「グランドイリュージョン」以来の、映画館で観ていたらスタンディングオベーションしたくなるような作品でした。

 

以下ネタバレあるかも。

 

先日の記事にも書きましたが、勤めている限り、仕事とは自分の我を出してしまっては上手く回らなくなる場合が沢山あります。

一つの店があるとして、そこのルールを決めるのはオーナーです。従業員はその店を繁盛させるために、自分の出来る限りの能力でその店に貢献すること。この「出来る限りの能力」というものは人それぞれですが、ルールを越え、自己流を通そうとすることはオーナーは求めていないわけです。たとえそのやり方のほうが上手くいくと確信があったとしても。

 

じゃあそこでどうするか?

やりたいことを我慢してオーナーのやり方に従うのか、それとも、自分のやり方にチャレンジするのか。

この映画の中では、あるハプニングがキッカケでオーナーに「芸術ならよそでやってくれ!」とドヤされ、一流シェフのカールは店を辞め、チャレンジの方へ進みます。

オーナーは同じやり方を続けたい人。「ストーンズのライブに行ってサティスファクションが聴けなかったらガッカリするだろ?」という例えに含む気持ちもよく分かります。

しかしカールにとって、クリエイティブで美しい料理は「生き残る」ための、先鋭的で、自分自身から溢れ出る愛を周囲の人々に伝える方法だったのだろうと、私は感じました。

 

その証拠に、ボロボロのフードトラックで一からスタートしたカールの活き活きとしたエネルギーは、作り出すサンドイッチを通して人々に伝わり、人気を集めることになります。

 

ただ、ここでポイントなのがカールの息子パーシーの存在。

いわゆる〝イマドキの子〟で、デジタルネイティヴな彼が勝手にツイッターVine(今はなくなったのかな?)で情報拡散したのが功を成し、リアルタイムの集客を掴んでいきます。

 

SNS当たり前な時代の中、これらを上手く取り入れた考えができない堅い頭のビジネスは、これから先自然淘汰は避けられなくなってくるでしょう。

 

選択肢が無限にあるなか、どれを選ぶかは自分次第。賢く生きて生きたいものですね。

 

 

 

saihate.hatenablog.com

 

 

 

空気は読みません。何故ならめんどくさいから。

先日、とある方と「空気を読むこと」について話していた。

 

まず、「空気を読む」の定義は何なのだろう?どこからどこまでが読めていて、どこからどこまでが読めていないのだろう。私は少し疑問に思った。

 

「空気を読む」と似たような意味合いで「顔色を伺う」というのがある。

私は自慢じゃないが、子供の頃から親の顔色を伺い、友達や恋人の顔色を伺いながら今まで生きていた。こうやって自分のことを客観的に見れるのは、今、そうすることをやめているから分かるのである。

 

しかし、やめたらやめたで今度は「KY」によってしまう。

元々顔色を伺っていたので、あとで振り返ったときに「あ、あの時あぁやって言ったけど、悪かったかな」とかいうふうに、一応気にしてはみるものの、すぐに「ま、いっか。」となるのである。

 

とにかくめんどくさいのが苦手なので、人とのコミュニケーションも回りくどい言い方をされると話がよく分からなくなってきて、「だからなに?結局何が言いたいの?」と言いそうになるのを必死でこらえている。

 

だからといって「言わなくてもわかる」のとはちょっと違うし、やっぱり伝えたいことは言葉にしないとダメだなぁとも思う。

 

誰が最初に「KY」なんて言い出したんだろう。

空気を読んでほしい人は、自分が何も言わなくても察知しろよって思いがあるんでしょう?

そんなのただの傲慢じゃないか。

 

居てほしいなら居てほしいと、帰ってほしいなら自分の時間を使いたいと、手伝ってほしいなら手伝ってほしいと、口が付いてるならそれを使えばいいじゃないか。

 

「空気読めてないよね」って言う人(言う側)ほど、自分自身と他者の境界線があいまいのような気がする。

 

年末のドッキリ②

年の瀬に昔お付き合いしていた元カレが店に来た、という話を書いたが、その2のエピソードを思い出した。

 

その1はこちら↓

 

saihate.hatenablog.com

 

また別の人なんだけど、去年か一昨年くらいにその人も突然店にやって来て「パーマをかけて欲しい」と言い出した。

私は最初、まったくその人とは気づかず、普通に店に予約しに来た人だと思ってそのように応対していた。

しかし途中でその人が「俺のことわかる?」と言い出したので、え?と思いながら顔をまじまじと見たのだけれど、それでも完全に思い出せず、(前の店で来てくれてたお客さんとか??え?本当にわからん、だれ??)と脳内のいたるところにアクセスしてみたもののまったく手がかりが掴めず、これは下手に「わかるよ」なんて言ったらダメなやつだと思い、ついに「す、すみません、誰でしたっけ?」と聞いてしまった。

すると彼が「昔ちょっと付き合った〇〇」と言った瞬間、全てを思い出した。

「あー!!思い出した!ごめん、全然思い出せなくて。えへへ」と笑ってごまかした。

だって当時よりも随分髪が薄くなってて、本当に誰かわかんなかったんだもん。

 

彼とは付き合ったと言ってもほんの1ヶ月弱とかだし、あまり楽しかった思い出もなく、私の中では付き合ったうちに入るかどうかも微妙だったのだが、それでも彼の中では「付き合った」の中に入れてくれていたのだろう。

もともと自由が好きな人だったのに、結婚して子供も生まれ、奥さんに完全に自由を制限されているようだった。

ドンマイ……。としか言いようがなかった。

若い頃目指していた革細工も今はあまりできていないようで、センスがあったのにもったいないなぁと思った。

 

「楽しそうでいいね」と言われた私は、当時我が強かった彼に自分をあまり出していなかったあの頃の自分よりも随分と自由である。

 

年末のドッキリ

もういくつ寝るとお正月?よっつ?早くない?

年の瀬というのは、普段会うことがない人と会う機会というのがグッと増えるような気がするのだけど、昨日突然、ハタチの頃にお付き合いしていた人が店にやってきた。

「ちょっと近く通ったから冷やかしにきた」と言うので、それならついでに髪切りなよ、売り上げに貢献してよ。と言って無理やり髪を切らせた。

髪を切りながら「あの頃はあぁだったね、こうだったね、」みたいな話をしていると、私はある事に気づいた。

現在の恋人との関係においての私の立場は、昔付き合っていたその人の立場とよく似ていたのだ。

「恋愛」というものに取り掛かったのが遅かったため、ハタチくらいの頃の私はまだ「男の人と付き合う」という事がどうすればいいのかよく分からなかった。

お互い車で1時間程の場所に住んでいたし仕事の関係でしょっちゅう会えなかったのだが、それでも相手は時間を作ってわざわざ私の職場に迎えに来てくれたり、毎日のように電話をくれたりと、今考えたらとてもありがたい事だし、それと同時に結構ムリしてたんだろうなぁと思った。

 

私は恐る恐る聞いてみた。

「私から連絡したことあった?」

すると彼は即答でこう答えた。

『ないよ。どこかで待ち合わせとかする時とか以外ではなかったよ。いっつも俺からやったし、もし俺がずっと連絡しなかったらそのまま連絡来んそうやった。』

 

痛い。痛すぎる。

心臓をえぐられたかと思った。

 

よくよく考えてみたら、私は「付き合うってこんな感じなのか。」という風にあまり深く考えることもせず、相手が差し出してくるものを受け取るばかりで返してなかった。

いや、きっと返し方が分からなかったのだと思う。

それに、完全に安心していたし、疑うこともなにもなく、そのまま時がきたら結婚するんだろうとボンヤリ頭の中で考えていた。

だが、現実はそう甘くはなかった。

 

ある時、ふとなんとなくイヤな予感がした。

「なんか私振られるんじゃないかな」と思ったので、自分から彼に連絡をしてみたのだが、時すでに遅し。イヤな予感は的中した。

『友達みたいなんだよね。』と言われ、考え直してほしいという私の言葉にも耳を傾けてもらえず、あっけなく私たちは別れた。

 

自分の何が悪かったのか、当時はまったく理解できなかったのだけれど、現在、当時の彼の気持ちは身に染みて理解できる。

 

私はいま、カルマの種を刈り取っているところなのである。

 

 

お互いを尊重するための一枚の壁

結婚しているパートナーと、玄関だけが一緒で中に入ったら居住空間が別れてるっていう家に住んでたのは村上春樹だったっけ?誰か忘れたけど、そんな話を思い出した。

「普通」、声だけの恋人なんてあり得ないのかもしれないけれど、私はこの「たまたまのお隣さんと音だけの共有パートナーになる」というのは、ずいぶん共感を得る部分が多かった。

名前も知らない、会わない、でも生活音をすべて共有するということは、映画の中のセリフでもあるように「見えないものがみえるんだよ」ということになる。

 

私は生まれつき視力がある状態で生まれたため、普段の世界を平面的に見ている。だが、生まれつき視力がない人にとっては、世界は立体で〝視えている〟らしい。

そんなふうに、相手の表面を見ないまま、声や動作の音だけを頼りに相手を知るということは、相手の〝ありのまま〟という部分を見ることになる。

「パジャマでいたければいればいい、股間をかきたければかけばいい」というように、本来なら気を使わず自分の心の要求そのままにいればいいのに、私を含め多くの人が「見られている」ことを気にして思うように振る舞うことができない。

他者を「理解」することは無理なのに、私たちは「わかってほしい、わかってもらえない」という無茶な要求をしてしまうことが当たり前になり過ぎている。

 

相手のありのままを知るためには、「知り過ぎない」という一枚の壁が、もしかしたら必要なのかもしれない。

 

 

 

 

好きなものを仕事にしなくてもいいから与えられた場所でモテる努力をしろ

私が美容師という仕事を始めた頃、時代はキムタクの「ビューティフルライフ」によるカリスマブームが沸き起こり、その頃から男性美容師が増え、今では多くの男性美容師が美容界を引っ張っている。

当時、おそらく「モテ」を意識して美容師を目指した人もいたと思う。

そしてそういった「モテ」を目指したにわか美容師は、現実の辛さに耐えられずに続々とリタイヤしていった。

そういった人は最初から目指している方向が違っているように思う。

普通なら自分が美容師として社会にどのように貢献できるか、それらは自分の得意とする仕事でしか無理なことなんだけど、その「自分の得意とするもの」さえもわかっていなければ、美容師になったとしてもやり甲斐を感じられないのは当然のことだろう。

 

私が美容師になると決めたきっかけは、小学生の時に母に連れられていった美容院(もう20数年まえのことなので、今でいうおばちゃん美容室的なところ)でカットしてもらった髪型がものすごくダサく、子供ながらに「なんでここをこうやって切らないの?」と思ったりしたことから、「うまく表現できない人でも意思を汲み取ってやる美容師になる」と決めた。なりたい、ではなく、「なる」だった。

小学生の時点で将来の進路を決めた私は、ただそこに向かうための一番早い近道をいけばいいと思っていたので、小、中、高の勉強はほどほどに、「美容師になるからそんな勉強せんでいいやろ」くらいに思っていた。自分にとって一番合う道(運動が少なく、勉強もそこそこでよく、制服が一番可愛いところ、という基準)を選ぶだけだった。そんな感じだったので、親との三者面談では何も話すこともなく、親は「本人に任せてます。」と言い、3分で終わった。

前回の記事にも書いたが、私は自分で自分からぺらぺらと話しかける外交的なタイプではないし、それを自覚していたため、社会に出てもそのままのスタイルを貫いた。

「きっと私みたいに無駄に話しかけられるのが苦手な人もいるはず。」

そう信じて、無理しない接客スタイルを貫いたら、私と似たような「話が苦手な人」にモテている。(と、勝手に思っている。)

 

「モテ」を目指して入る世界といえば、バンドマンもその代表位置にあるだろう。

なんとなくモテそうという動機で始めても、華やかな表面とは打って変わって地道な練習や人脈作り、スタジオ代やライブ代といった金銭面など、ステージの一瞬に至るまでには様々な苦労もあるだろうが、そういった苦労を苦労と感じずいい歳しても音楽で楽しめるかどうかは、そこに「好き」があるかどうかなんじゃないかと私は思う。

メジャーで売れてるからいいバンドというわけではない。売れるためにはそれなりの方法をとっていかないといけない場合も多いだろう。それはバンドに限らず、どんな職業にも一貫して言えることだと思う。

 

様々な考え方があるだろうが、私個人としては「本当に好きなものは仕事にしてはいけない」と思っていて。本当に好きなものは趣味でやってる方が満足度は高い。(それがお金に変わればラッキーだけども)

じゃあ私が今やってる美容師は好きでやってないのか?と言われればそういうわけではなく、まず「好き」の種類が違う。美容師という仕事は一見クリエイティブなようでもあり、需要と供給のきっちりしたビジネスでもあり、非常に線引きとバランスの難しい職業であるように思う。

美容師という仕事の中でも「ヘアカラー」という分野は私にとってはどうも特別なようで、本当にしたいカラーは通常の営業ではなかなか難しい。まず、カラーをさせてもらう人を探すところから難しい。ウィッグなんてダメ。やっぱり生身の、生きていて動いていて、常に移り変わる人間という儚い対象に、私が思うヘアカラーを創りたい。それは「作品撮り」ではなく、日常で呼吸するようにその髪で時間の経過と共に過ごして欲しいという願望がある。

「仕事」というのはニーズが求められるものであって、双方の需要がマッチしてないと成り立たないものである。

本当に好きなものを仕事にすると、嫌いになってしまう。それは細部にまでこだわりたいから。だから仕事にはしない。(今のところは。)

 

好きかどうかわからない、目標がない、何をしていいかわからない。

最近の若者は……っていうとアレだけど(若者じゃなくてもいるから)、結構こういう人が多いみたいで。

それって無理やり「好き」を仕事に結びつけようとするから余計わかんなくなるんじゃないのかなぁ。

言っときますけど、仕事は仕事なんです。職場に入ったらそこで自分がどう動けば、何をすれば、その職場での1日がうまく回るかを考えればいいだけなんだよね。それが社会貢献ってことなんですよ。社会貢献って、何もボランティアとかゴミ拾いとかじゃないんですよ。あなたがいるその場所が、社会なんです。

そこで自分のやり方を押し通そうとしたりってのは、オーナーは求めていないわけ。

そんな奴の代わりはいくらでもいるわけ。

コンビニでも工場でも飲食でも営業でも、なんであっても「そこで働く」と決めたらそこで自分なりに出来ることで一番を目指せばいい。

挨拶だってただ単に大きい声で言えばいいってわけじゃないでしょ。時と場所と雰囲気を考えた挨拶が必要でしょ。お茶だしだって大事だよ。インスタントコーヒーだって入れ方次第でしょ。(このカフェブームの最中未だにまずいインスタントコーヒーを出す美容室もどうかとは思うけど、それは私がコーヒー好きだからってだけ)

美容師の下っ端には〝シャンプー〟という最強の武器がある。(そこばっかりで先に進まないのも困るけど)

下っ端には下っ端なりの、出来ることが必ずあるはず。

 

モテる努力をしろよって話。

 

作り笑いが大嫌いなのさぁ〜

たまに、中身からぽわわわぁんとした雰囲気を出しながら笑顔を振りまいている女性がいる。

 

正直、とてつもなく羨ましく思う。

 

なぜなら、私は「笑顔」を作るのが苦手なのだ。

 

あんなピンク色の湯気が出てきそうな笑顔なんか、どうしたってムリだ。

気を抜いていたらいつも無愛想、それがわたしである。

 

接客業なのに笑顔を振りまけないのは致命的かもしれないが、早い段階で「無理に笑う方が悪影響」と悟ったので、上司からの「笑えコール」はことごとく無視してきた。

 

しかし、たまに気心知れた人からは「あなたのハニカミスマイルが素敵だ。」と言われたりもする。そんなスマイルを出すときは、おそらくわたしはワタシを忘れている。

 

「普段からソレ、出せばいいのに」

とも言われる。

そんな、スイッチ押して出るようなもんならとっくに出している。

(私の笑顔はそんなに安くないんだぃ!)

 

おそらく私は、心と身体がわりと直結しているんだろうとおもう。

 

心が笑ってないのに「笑顔」を作るのは、私にとっては非常に難しい。

 

無理に作り笑いして引きつったブサイクな笑顔を振りまくより、あえて無理に笑顔なんて意識せずクールぶった方がラクなのである。

 

実は、メールで絵文字を使いたくない人なのだが、仕事で予約メールの受け答えをするときに「やっぱお客様にはマル。だけじゃダメだよなぁ。。。」とか思いながら、行き過ぎる親指の回数に苛立ちながら絵文字を添えている。(実際、予約はメールとかLINEの方が有難いんですよ、違うんです、単に私の不精なだけなんです。LINEのスタンプは無駄に使いたいんです。)

 

もう、メールもクールぶってもいいですか?

 

 

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無愛想のススメ 人間関係が劇的に改善する唯一の方法

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